歴史の証拠八

日本の大飢饉

 

時期:紀元前19年から16年に至る



紹介

この証拠ではモルモン書で見られる飢饉と記紀に見られる疫病の事件を比較します。



参照

1  さて、さばきつかさの統治第七十二年に、争いが激しくなり、国中至る所ですべてのニーファイの民の中に戦争が起こった。

  2  この滅亡と悪の業を行ったのは、あの秘密強盗団であった。この戦争は年内続き、第七十三年にも続いた。

  3  そしてこの年に、ニーファイは主に叫び求めた。

  4  「おお、主よ、この民が剣で滅びることのないようにしてください。おお、主よ、むしろ国内に飢饉があるようにし、彼らに主なる彼らの神を思い起こさせてください。恐らく彼らは悔い改めて、あなたに立ち返るでしょう。」

  5  すると、ニーファイの言葉のとおりになった。その地に、すなわちすべてのニーファイの民の中に大飢饉があった。このようにして、第七十四年にも飢饉は続き、剣による滅亡の業はやんだが、飢饉によって滅亡がひどくなった。

  17  そこで、第七十六年に、主は民から怒りを遠ざけて地に雨が降るようにされたので、地は果実の実る季節に果実を産した。また、穀物の実る季節に穀物を産した。

  ヒラマン書11:1−5、17

紀元前約十九年から十六年に至る



[201]この天皇の御世に、悪い病気が盛んに流行して、伝染病にかかった人民は次々に倒れ、今にも、人みな死に絶えてしまいそうになったことがあった。

古事記

福永武彦(訳)P.201



[203]このために神のたたりもすっかり収まり、国の中が再び穏やかになった。

古事記

福永武彦(訳)P.203



[122]五年、国内に疫病多く、民の死亡するもの、半ば以上に及ぶほどであった。

日本書紀(上)

宇治谷 孟(訳)P.122


[124]ここで疫病ははじめて収まり、国内はようやく鎮まった。五穀はよく稔って百姓は賑わった。

日本書紀(上)

宇治谷 孟(訳)P.124




説明

    モルモン書によると裁き司の統治の第七十三年から大飢饉がありました。(参照:ヒラマン書11:25)そして飢饉は第七十六年に終わりました。(参照:ヒラマン書11:17) それらの日付を現在のカレンダーに換算すると、紀元前約19年から紀元前約16年になります。ですからその期間の飢饉は凡そ三年に渡って続いていたと考えられます。

    記紀でも同様の出来事を紹介しています。その出来事は崇神天皇が統治していた時代に起こりました。 ヒラマン書と日本書紀はそれらの出来事を同様の表現で描写しています。( 上記の参照:ヒラマン書11:17、日本書紀(上)P.124)

    その疫病は崇神天皇が即位してから五年後に始まりました。(参照:日本書紀(上)P.122)そしてそれはその後七年十一月三日から八年夏四月十六日までの中に終わりました。(参照:日本書紀(上)P.123ー124) 日本書紀で紹介しているその疫病の時期(2、3年間)は、モルモン書で紹介している時代と殆ど同時期です。

    そのモルモン書の中の完全の物語はヒラマン書10−11章にあります。日本書紀の物語はP.122−124( 宇治谷 孟(訳) )にあります。双方の歴史を読み比べて見てください。 類似点と異なる点の両方が見当たります。特にこの期間ではニーファイ人が筑紫平野に住んでいた指導者ニーファイと奈良に住んでいた崇神天皇の自然災害についての反応に相違がありました。

    モルモン書の方が日付は正確だと思われます。日本書記によると疫病は崇神天皇の統治の第五年後に始まりました。その時期が正確だと仮定するならば彼の統治の始まりを計算することが可能になります。ところがモルモン書によるとその飢饉は紀元前約19年に始まりました。ですからその時期を考慮すると崇神天皇の統治の始まりは実際には四年間前だったと考えられます。(紀元前約23年に)(証拠一表一.古い天皇系図 によるとその統治の伝統的な日付は紀元前約97年に始まりました。)



結び

    紀元前約19年に大飢饉は日本で発生しました。その飢饉は凡そ三年間続きました。その自然災害はモルモン書と記紀の中に記されました。