歴史の証拠六

日本の起源

 

時期:紀元前600年から46年に至る


紹介

日本の起源の記録を発見するために研究を進めていますが、今、十分な情報を知り得ることが可能になりました。それらの十分な情報の中から、特別に、ニーファイ人の歴史と日本人の歴史がどのように分裂したのかを知り得ることを、その情報の中から発見することが最大の目的です。


参照

  13  そして、神の御霊がほかの異邦人にも働きかけ、彼らが囚われの身の上から逃れて大海を渡って行くのが見えた。

  14  そして、約束の地に大勢の異邦人の群れがいるのが見え、神の激しい怒りが兄たちの子孫に下り、彼らが異邦人の前から散らされ、打ち負かされるのが見えた。

  15  またわたしは、主の御霊が異邦人のうえにあって、彼らがまことに栄えてその地を受け継ぎとして得るのを見た。また彼らが、殺される前のわたしの民のように肌の色が白く、非常に麗しく美しいのが見えた。

ニーファイ第一書 13: 13−15

紀元前約六百年から五百九十二年に至る



  30  しかしながら、あなたは見る。囚われの身を逃れる異邦人、ほかのあらゆる地に勝ったえり抜きの地、すなわち、あなたの子孫が受け継ぎの地として所有すると、主なる神があなたの父に聖約された地の面において、神の力によってすべてのほかの国民より高められる異邦人を。それゆえ、あなたの兄たちの中に生きている、あなたの子孫で血が混じった者たちが、この異邦人によってことごとく滅ぼされてしまうのを、主なる神は許されない。このことをあなたは見る。

ニーファイ第一書 13: 30

紀元前約六百年から五百九十二年に至る



  13  今やゼラヘムラの民はすべて、ニーファイ人とともに数えられた。それは、ニーファイの子孫である人々のほかに、だれにも王位が授けられなかったからである。

モーサヤ書25:13

紀元前約百二十年



  44  このようにして、ゼラヘムラの全地で、すなわちニーファイ人と呼ばれたすべての民の中で、さばきつかさの統治が始まった。そして、アルマが最初のさばきつかさであり、大さばきつかさであった。

モーサヤ書29:44

紀元前約九十一年



  3  さて、第四十六年には、ひどい争いと多くの離反があった。そのために、ゼラヘムラの地を去り、北方の地へ行ってそこに住もうとした者が非常に大勢いた。

  4  彼らは非常に遠くまで旅をし、幾つもの大きな湖沼と多くの川のある所に着いた。

  5  そして、彼らはその地の全域に広がった。以前にその地に住んでいた多くの者のために荒らされておらず、樹木もなくなっていない方々の地方に広がった。

ヒラマン書3:3−5

紀元前約四十六年



[122]三年秋九月、都を磯城に移した。これを瑞籬宮(奈良県桜井市金屋付近)という。

日本書紀(上)

宇治谷 孟(訳)P.122





[130]天下は平穏になった。そこで天皇を誉めたたえて「御肇国天皇」という。

日本書紀(上)

宇治谷 孟(訳)P.130



説明

ニーファイ人の歴史は正に、千年間にも及ぶものでした。彼らの歴史は、預言者リーハイ(神武天皇)から預言者ニーファイ(綏靖天皇)へと受け継がれました。その初めは、凡そ紀元前600年でした。ニーファイ人は紀元後、約400年に全滅しました。

同じように記紀の歴史も神武天皇(預言者リーハイ)から綏靖天皇(預言者ニーファイ)へと受け継がれました。私のこの研究の主たる目的はモルモン書で記録されているニーファイ人の歴史と記紀の書で記録されているそれぞれの類似点を見出すことにあります。この研究を進める中で、二つの歴史を一つの歴史として発見し、解決していく事ができれば幸いです。

    この研究を進めて行く中で判明したものが多々あります。初めにニーファイ人の統治は王国によって築きあげられていました。しかし、紀元前約91年に彼らは統治の形を変えました。 その時期、ニーファイ人が住んでいた地の首都はゼラヘムラという町でした。研究によるとそこは日本の地、北九州にある筑後川の近辺であったと思われます。ゼラヘムラの地は現在の筑紫平野の中にあったと考えられます。この時期に、裁き司という統治が形成されました。しかしながらその新体制には多くのニーファイ人が反発し、元の体制に戻すように呼びかけました。その紛争は幾度となく繰り返されました。そのために、その紛争は幾つかの戦争を呼び起こす結果となりました。長引く紛争に、紀元前約46年に、大勢の人々がゼラヘムラの地を去り、北方の地(本州)に向かって移動を始めました。(参照:ヒラマン書3:3)(およそ同じ時期に他集団は、関門海峡の地方から船出し、本州の西海岸を探検し始めました。残念ながら、これらの定住場所の記録は存在しません。(参照:アルマ書63:5−8)) 彼らは「非常に遠くまで旅」をしました。その新しい地には「大きな湖沼と多くの川」がありました。(参照:ヒラマン書3:4)その地は琵琶湖の盆地であったと前に説明されています。(参照:一巻.地理の証拠十八)

    その地に移り住んだ住民たちは、再びその地に於いて新たな王国を築こうとしましたが、裁き司が実権を握っていた時代には王の存在はありませんでした。そのために、王の継承者を探すことに問題が生じました。なぜならば、ニーファイの子孫だけが王を継承するという規則があったからです。(参照:モーサヤ書25:13)8 そのために住民達は王の系図の記録を辿ってニーファイの子孫の継承者を発見しました。

    次にその時代の日本に於ける歴史を記紀の本から繙いていきます。特に着目したいのは崇神天皇の歴史です。この天皇に焦点を合わせて研究しています。

崇神天皇こそが王位を受け継ごうと熱望したニーファイの子孫であったと、証明することが必須の条件です。彼が系図でその主張を裏付けるものがありました。それは、記紀の中で綏靖天皇と崇神天皇の系図と歴史の資料は残っていますが、彼等が在任していた間の他の天皇についての歴史の資料は残っていません。(その天皇の名は「証拠一.表二」で挙げています。)故に、彼等は恐らく本当の天皇ではなかったのではないかということが暗示できます。彼等は、崇神天皇の系図の部分だけを記録しています。 先人の歴史家においても綏靖天皇から崇神天皇に至るまでの不明の歴史の詳しい説明を紹介していません。私はこれらの不明の歴史について研究を重ねてきました。その研究から、私はそれらの不明の歴史についての説明をすることが出来ます。そして日本の紀元を元に徐々に紹介して行きます。

    日本書紀によると、崇神天皇の統治の日付は紀元前約97年に始まり9、二年後の紀元前約95年に崇神天皇が奈良で王国の首都を確立したとあります。(参照:日本書紀(上)P.122)

モルモン書の中にある一節で述べている部分には、数人のニーファイ人の集団が紀元前46年に奈良の周辺(琵琶湖)に植民したという証拠があります。 (参照:ヒラマン書3:3−5)その後、紀元前23年に崇神天皇(そのニーファイ人の集団の一人)によって王国を確立し10、紀元前21年に奈良を首都としました。11(参照:日本書紀(上)P.122) 日本とニーファイ人の歴史はこの期間においては分裂していました。12


結び

ニーファイ人の集団が関西の地方に移住した後、その集団の王(崇神天皇)は奈良に首都を築きました。しかしながら、日本の歴史(口承で記録された記紀の歴史)とモルモン書の歴史の記録には大きなずれが見られます。それらの歴史の違いを一つに結びつける手がかりは十分にあります。次の表は日本の紀元の歴史の一覧です。

8 凡そ45年前までは王が王国を治めていましたが、その後裁き司の統治に変わりました。

9 この日付は「証拠一」の表一に見つけられます。

10 この行事の後で崇神天皇は御肇国天皇の肩書きを授かりました。(参照:日本書紀(上)P.130)

11 大部分に於いて歴史の日付の記録はモルモン書に信憑性があると私は信じています。そのモルモン書の年表によると崇神天皇の実際の戴冠式は紀元前約23年の時期でした。(歴史の証拠八:日本の大飢饉を見てください。)

12 読者の方は日本人の容姿が預言者リーハイの民(ヘブライ人)に似通っていると感じたことはありませんか?紀元後約400年に殆どのヘブライ人は死滅されました。その時期にアジア諸国を中心に他国の多くの民族が日本に移民して、それらの異民族がお互いに結婚したことによって混血の、特に残りのヘブライ人との間の子孫が誕生したのでは、と考えられます。 預言者ニーファイはそのことを預言していました。(参照:ニーファイ第一書 13: 1315、30)

表七.日本の起源