歴史の証拠五

ニーファイ人、レーマン人、熊襲

 

時期:紀元前約544年から紀元後約421年に至る



紹介

    この下記の節はモルモン書のニーファイ人とレーマン人という民について述べています。彼らは記紀に出て来る熊襲と似通っています。ニーファイ人は彼等の歴史についてだけを述べていますので、レーマン人や他民族についてはあまり知られていません。その歴史は凡そ千年に至りました。下記の節は初期、中期、そして末期の時代に分けられています。



参照

ニーファイ人:初期

  1  さて見よ、わたしの愛する同胞よ、わたしはあなたがたに語りたい。わたしニーファイはあなたがたに、自分たちが異邦人以上に義にかなっていると思ってほしくないからである。神の命令に従わないならば、あなたがたも皆同じように滅びる。しかし、すでに述べられた言葉があるからといって、異邦人がことごとく滅ぼされると考えてはならない。

ニーファイ第二書30:1

紀元前約五百五十九年から五百四十五年に至る



13  さて、レーマン人でない民はニーファイ人であったが、民はそれぞれニーファイ人、ヤコブ人、ヨセフ人、ゾーラム人、レーマン人、レムエル人、イシマエル人と呼ばれた。

  14  しかし、わたしヤコブは、今後このような名で民を区別しない。ニーファイの民を滅ぼそうとする者をレーマン人と呼び、ニーファイに好意を持っている者をニーファイ人、すなわち、王たちの統治に従ってニーファイの民と呼ぶ。

ヤコブ書1:1314

紀元前約五百四十四年から五百二十一年に至る



ニーファイ人:中期

  11  そして、レーマン人の言い伝えを信じようとせずに、エルサレムの地から持って来たあの記録と先祖の正しい言い伝えを信じた者、神の戒めを信じて守った者はだれであろうと、そのとき以降、ニーファイ人、すなわちニーファイの民と呼ばれた。

アルマ書3:11

紀元前約八十七年




  45  しかし、ニーファイ人はもっと良い動機に励まされていた。彼らは君主制のために戦ったのではなく、権力のためでもなく、自分たちの家と自由と、妻子と、自分たちのすべてのもののために、特に礼拝の儀式と教会のために戦っていた。

  46  彼らは、神に義務を負っていると感じていたことを行っていたのである。主は彼らに、また彼らの先祖に、「あなたがたは最初の攻撃についても、二度目の攻撃についても、罪を犯していないかぎり、敵の手によって殺されるに任せてはならない」と言われたからである。

  47  主はまた、「あなたがたは血を流してでも自分たちの家族を守りなさい」とも言われた。したがって、ニーファイ人は自分自身と家族、土地、国、権利、宗教を守るためにレーマン人と戦っていたのである。

アルマ書43:4547

紀元前約七十四年


ニーファイ人:末期

  8  さてこの年に、ニーファイ人とヤコブ人、ヨセフ人、ゾーラム人から成るニーファイ人の間に戦争が始まった。この戦争は、ニーファイ人に対して、レーマン人とレムエル人とイシマエル人が戦ったものであった。

  9  ところで、レーマン人とレムエル人、それにイシマエル人はレーマン人と呼ばれていたので、この戦いはニーファイ人とレーマン人との間で行われたものであった。

モルモン書1:8

紀元約三百二十二年



  11  ニーファイ人とレーマン人の双方の民の中に見られた、流血と虐殺のすさまじい有様は、口で述べることができず、人がそれを完全に描写して書き記すことも不可能である。彼らは一人残らず心をかたくなにし、血を流すことを絶えず喜びとした。

モルモン書4:11

紀元約三百六十三 年から 三百七十五 年に 至る




  7  また見よ、レーマン人は、わたしの民ニーファイ人を町から町へ、地方から地方へと追い詰めて、とうとうニーファイ人は一人もいなくなった。その滅亡はひどかった。まことに、わたしの民ニーファイ人の滅亡は、ひどく驚くべきものである。

モルモン書8:7

紀元約四百 年から 四百二十一 年に 至る


   


  16  そして、ニーファイ人が戒めに背き、殺され、略奪され、狩り出され、追い出され、虐殺され、地の面に散らされ、レーマン人と交じってもはやニーファイ人と呼ばれなくなり、邪悪で野蛮で残忍になり、まことにレーマン人になってしまうまで、これらはニーファイ人によって代々伝えられてきた。

ヒラマン書3:16

紀元前約四十九年から三十九年に至る



最後のニーファイ人

  1  さて、わたしモロナイはヤレドの民の話を短くまとめ終えた後、もうこれ以上は書き記さないと思ったが、わたしはまだ命を失っていない。わたしはレーマン人に殺されないために、わたしのことを彼らに知られないようにしている。

  2  見よ、レーマン人同士の戦争が今非常に激しい。また、彼らは憎しみのために、キリストを否定しないニーファイ人をすべて殺している。

  3  わたしモロナイはキリストを否定しないので、命の安全を得られる場所を求めてさまよっている。

  4  さて、わたしは以前の思いとは違って、もう少し書き記すことにする。わたしはもう書き記さないと思っていたが、主の御心のままに、将来いつかわたしの同胞であるレーマン人のために価値をもたらすと思われることを、もう少し書き記すことにする。

モロナイ書1:1

紀元約四百一年から四百二十一年に至る



レーマン人:初期

  14  それでわたしニーファイは、ラバンの剣を取り、それに倣って多くの剣を造った。それは今やレーマン人と呼ばれている民が、わたしたちを襲って滅ぼすことのないようにするためであった。彼らがわたしとわたしの子供たちと、またわたしの民と称する者たちを憎んでいることを、わたしは知っていたからである。

ニーファイ第二書 5: 14

紀元前約五百八十八年から五百六十九年に至る




  14  しかし、わたしヤコブは、今後このような名で民を区別しない。ニーファイの民を滅ぼそうとする者をレーマン人と呼び、ニーファイに好意を持っている者をニーファイ人、すなわち、王たちの統治に従ってニーファイの民と呼ぶ。

ヤコブ書 1: 14

紀元前約五百四十四年から五百二十一年に至る



  12  そして、わたしが祈り、力の限り努力した後に、主はわたしに、「あなたの信仰のゆえに、わたしはあなたの願いを望みどおりに聞き届けよう」と言われた。

  13  さて見よ、わたしが主に望んだこととは、わたしの民のニーファイ人が戒めに背くようになって、何らかの方法で滅ぼされてしまっても、レーマン人が滅ぼされなければ、主なる神が聖なる腕の力によってでもわたしの民ニーファイ人の記録を残し、それが将来いつかレーマン人に伝えられて、彼らが救いにあずかれるようにしていただくことであった。

  14  現在のところ、レーマン人を真実の信仰に連れ戻そうとするわたしたちの努力は、むなしいものとなっている。彼らは激しい怒りをもって、何とかしてわたしたちの記録とわたしたち自身を、それにわたしたちの先祖のすべての言い伝えを絶やしてしまおうと誓っているのである。

  15  しかしわたしは、主なる神がわたしたちの記録を残す力を持っておられることを知っていたので、また主なる神がかつてわたしに、「あなたがたは必ず与えられると信じて信仰をもってキリストの名によって求めれば、何でも与えられる」と言われたので、わたしは続けて神に叫び求めた。

  16  わたしは信仰を持っていたので、わたしたちの記録を残すように神に叫び求めた。すると神は、御自身がふさわしいと思うときにそれらの記録をレーマン人に伝えると聖約された。

  17  わたしエノスは、神が立てられた聖約のとおりになることを知っていたので、心が安らかになった。

エノス書 1: 12-17

紀元前約五百四十四年から五百二十年に至る



  20  わたしは、ニーファイの民がレーマン人を、神を信じる真実の信仰に連れ戻そうと熱心に努めたことを証する。しかし、わたしたちの働きは無益であった。レーマン人の憎悪は凝り固まっていた。そして彼らは、邪悪な性質に任せて野蛮で残忍で血に飢えた民となり、偶像礼拝と汚れに満ちた民となり、猛獣を食料として天幕に住み、短い皮帯を腰に締めて、頭をそった姿で荒れ野をさまよっていた。彼らは弓や三日月刀や斧を使うことを得意としていた。また、彼らの多くは生肉のほかは何も食べなかった。そして、彼らは絶えずわたしたちを滅ぼそうとしていた。

エノス書1:20

紀元前約五百四十四年から五百二十年に至る



レーマン人:中期

  4  アムリサイ人はレーマン人に倣って、額に赤いしるしを付けていたので、ニーファイ人と見分けることができた。しかし彼らは、レーマン人のようにその頭髪をそってはいなかった。

  5  方、レーマン人は頭髪をそっており、腰に皮をまとい、よろいを着け、弓と矢、石と石投げなどを持っているほかは裸であった。

  6  またレーマン人の肌は、彼らの先祖に付けられたしるしのとおりに黒ずんでいた。そのしるしは、先祖が戒めに背き、兄弟たちに背いたために受けたのろいであった。また、その兄弟たちとは、正しい聖なる人々であったニーファイとヤコブ、ヨセフ、サムである。

  7  これらの人々の兄たちは、これらの人々を滅ぼそうとしたために、のろわれたのであった。主なる神が彼ら、まことにレーマンとレムエル、およびイシマエルの息子たちとイシマエル人の女たちにしるしを付けられたのである。

  8  そして、このことが行われたのは、彼らの子孫をその兄弟たちの子孫と見分けられるようにするためであった。それによって主なる神は、御自分の民がのろいを受けた民と縁を結んで間違った言い伝えを信じ、滅びることがないように、彼らを守ろうとされたのである。

  9  さて、自分の子孫をレーマン人の子孫と結婚させた者はだれであろうと、その子孫に同じのろいを招いた。

  10  したがって、レーマン人に惑わされた者はだれであろうと、その呼び名で呼ばれ、しるしを付けられた。

  11  そして、レーマン人の言い伝えを信じようとせずに、エルサレムの地から持って来たあの記録と先祖の正しい言い伝えを信じた者、神の戒めを信じて守った者はだれであろうと、そのとき以降、ニーファイ人、すなわちニーファイの民と呼ばれた。

  12  そしてこの民は、自分の民とレーマン人の民についての記録を書き継いでおり、その記録は真実である。

  13  さて、再びアムリサイ人のことに話を戻すと、彼らもまたしるしを付けた。まことに、彼らは自分の身にしるしを、すなわち自分の額に赤いしるしを付けた。

  14  このようにして、神の言葉は成就した。神がかつてニーファイに言われた御言葉は次のとおりである。「見よ、わたしはレーマン人をのろった。わたしは彼らにしるしを付けて、今より後とこしえに、彼らと彼らの子孫が悪を悔い改めてわたしに立ち返らないかぎり、あなたとあなたの子孫から区別されるようにする。

  15  そしてまた、わたしはあなたの兄弟たちと種を交える者にもしるしを付け、彼らものろおう。

  16  そしてまた、わたしはあなたやあなたの子孫と戦う者にもしるしを付けよう。

  17  そしてまた、あなたのもとを去る者は、もはやあなたの子孫と呼んではならない。わたしはあなたと、またあなたの子孫と呼ばれる者たちを、これから先とこしえに祝福しよう。」これは、ニーファイと彼の子孫にあてた主の約束である。

  18  ところで、アムリサイ人はその額に自分でしるしを付け始めたとき、自分たちが神の言葉を成就しているのを知らなかった。しかし、彼らは公然と神に背いた。したがって、のろいが彼らに下って当然であった。

  19  さて、あなたがたは、彼らが自分自身にのろいを招いたということを知ってほしい。また、のろいを受ける者は皆、そのように自分自身に自分の罪の宣告を招くのである。

アルマ書3:4−19

紀元前約八十七年から八十六年に至る



  28  さて、レーマン人の中でさらに怠惰な者たちは荒れ野にいて、天幕に住んでいた。彼らはニーファイの地に含まれる西方の荒れ野全体に広く住んでおり、また、ゼラヘムラの地の西方の海岸に近い境の地付近にも、さらには、ニーファイの地の西方の、彼らの先祖が最初受け継ぎの地とした所にも住んでいた。このように、彼らは海沿いの境の地に住んでいた。

アルマ書22:28

紀元前約九十年から七十七年に至る



  4  さて、王がこの布告を出した後、アロンと彼の同僚たちは町から町へ、また礼拝の建物から建物へと巡って、国中のレーマン人の中に教会を設け、祭司たちと教師たちを聖任して、彼らの中で神の言葉を宣べ伝え、教えるようにした。このようにして、彼らは大きな成功を収め始めた。

  5  そして、何千もの人々が主を知るようになった。まことに、何千もの人々がニーファイ人の言い伝えを信じるようになったのである。そしてこれらの人々には、その当時まで伝えられてきた数々の記録と預言が教えられた。

  6  そして、主が生きておられるように確かに、アンモンと彼の同僚たちが啓示と預言の霊によって行った宣教と、彼らを通じて数々の奇跡を行われた神の力によって信仰を持つようになったすべての人、すなわち真理を知るようになったすべての人は、あなたがたに申し上げるが、主が生きておられるように確かに、彼らの説教を信じて主に帰依したレーマン人は皆、二度と道を踏み外さなかった。

  7  彼らは義にかなった民となったのである。まことに、彼らは謀反に使う武器を捨てて、もはや神と戦わず、同胞のだれとも戦わなかった。


アルマ書23:4−7

紀元前約九十年から七十七年に至る



レーマン人:末期

  38  そして、福音を受け入れなかった者は、レーマン人、レムエル人、イシマエル人と呼ばれた。彼らは次第に不信仰に陥ったのではなく、故意にキリストの福音に背いたのである。そして、彼らの先祖が初めから信仰が薄らいでいたように、彼らは自分の子供たちに信じてはならないと教えたのであった。

  39  それは、初めの時と同じように、彼らの先祖の悪事と忌まわしい行いのためであった。レーマン人が初めからニーファイの子孫を憎むことを教えられたように、彼らも神の子たちを憎むように教えられたのである。

第四ニーファイ、ニーファイの書38−39

紀元約二百三十一年



熊襲

[266]それは、タラシナカツヒコノ天皇が筑紫の訶志比の宮にあって、熊曾の国を伐とうとしていた時のこと、神を招くために天皇が琴をかき鳴らし、タケシウチノスクネノ大臣が、つつしみ清めた庭に控えて、神のお言葉をうかがった。

古事記

福永武彦(訳)P.266



[155]十二年秋七月、熊襲がそむいて貢物を奉らなかった。

八月十五日、天皇は筑紫に向かわれた。

日本書紀(上)

宇治谷 孟(訳)P.155



[160]十八年春三月、天皇はみやこに向かわれようとして、筑紫の国を巡航された。 。。。 夏四月三日、熊県[熊本県球磨郡]にお着きになった。

日本書紀(上)

宇治谷 孟(訳)P.160



[33]次にのちの九州である筑紫の島を生んだ。この島も身体が一つなのに顔が四つあって、顔の一つ一つに名前がついている。すなわちのちの筑前筑後である筑紫の国[今の福岡県]を、白日別と言い、のちの豊前豊後である豊国[今の大分県と福岡県の一部]を、 豊日別と言い、のちの肥前肥後である肥の国[今の佐賀・長崎・熊本の各県]を、建日向日豊久士比泥別と言い、熊曾族の住んだ熊曾の国[今の熊本県南部と鹿児島県近辺]を、建日別と言う。

古事記

福永武彦(訳)P.33-34




説明

ニーファイ人は誰だったのか?

    彼等の多くは預言者リーハイの子供たちの子孫でした。その子孫たちはそれぞれ分家した後、ニーファイ人、ヤコブ人、ヨセフ人、 そしてゾーラム人と呼ばれた部族に別れました。そして彼等は、預言者ニーファイに従い、彼の部族の一員に成りました。そしてその後、彼らはニーファイ人と呼ばれるようになりました。当初ニーファイ人は現在の熊本県、または鹿児島県の近くに住んでいたと思われます。(上記の証拠二:預言者リーハイと神武天皇の九州との関係類似点14を参照してください。)その後、凡そ紀元前約225年にニーファイ人は北九州の筑紫平野まで移動しました。( 考古学証拠一を参照して下さい。)彼らが呼ぶ首都ゼラヘムラは筑紫平野の中にありました。彼らは紀元約375年に至るまで生涯をその地で過ごしました。その後、彼等はレーマン人によって追跡を余儀なくされたために、本州に避難しました。そして、385年に滅びました。

    ニーファイ人は神の真実の信仰者でした。(参照:アルマ書3:11)最初からニーファイ人はモーゼの律法を守り続けていましたが、紀元後約33年にイエス・キリストが復活したのを機会にイエス・キリストの教義に従い始めました。

    ニーファイ人は他の部族との接触を避けました。 なぜならば、彼らは部族外結婚に厳しい規律を設けていました。 (参照:ニーファイ第二書 5: 23、アルマ書3:8)彼等は凡そ千年間に渡って、彼等の身分を維持していましたが、紀元約300年後に彼等は信仰に従うことを捨て、邪悪で凶暴な行動を始めました。 そしてついに、紀元約385年に神様の預言者の預言に従って、6 彼らはレーマン人によって滅ぼされました。従ってニーファイ人のモルモン書の歴史はこの時代で終結しました。


レーマン人は誰だったのか?

    レーマン人、レムエル人、イシマエル人と呼ばれた家族は一つの民族としてレーマン人と呼ばれました。レーマンとレムエルは預言者リーハイの一番目と二番目の息子達でした。イシマエルは預言者リーハイの道連れでした。彼(イシマエル)の息子たちはレーマン人の部族に参入しました。ニーファイ人は南九州から筑紫平野まで移住しましたが、レーマン人は移動しませんでした。 紀元前約70年までに多くのレーマン人は南九州を占拠していました。南九州から北九州に移動したニーファイ人は、そこを占拠しました。(地理の証拠の地図三を参照してください。)

    多くの時代を超えてレーマン人の名前の意味が、徐々に変化しました。

    紀元前約50年にニーファイ人から離脱した幾つかの集団は、大和(奈良県)の地方を植民地にしました。 (参照:下記の証拠六.日本の起源。)九州に残ったニーファイ人はその離脱した集団をレーマン人と呼ぶようになりました。(参照:下記の証拠十.日本の起源)モルモン書によると「レーマン人」について二通りの解釈をしています。

    その一つの意味はレーマンはリーハイの息子で彼は長兄でした。そしてニーファイとは兄弟同士でした。しかしながら、彼等の仲はあまり良い関係ではありませんでした。そのため、彼等は別々の道を歩き始めました。ニーファイは彼に従って来る人々の集団を作りました。そして、レーマンは彼に従って来る人々の集団を作りました。その集団はニーファイ人とレーマン人と呼ばれるようになりました。しかしながら、そのレーマン人についての意味は限られたものでした。

    もう一つの意味は、ニーファイ人が信仰するイスラエルの神を信じない敵について語られています。 (参照:ヤコブ書1:13−14)レーマン人はニーファイ人の厳しい規則を避けました。そのため、レーマン人の伝統に従って来た多くの人々は、他民族の異邦人たち7であったと思われます。エノス書1:20の描写は恐らく、日本の原住民についてだと思われます。その中のレーマン人についての描写は、恐らく、そのレーマン人に於ける二番目の意味を描写していると思われます。

    そして、大勢の異邦人は韓国から移民したと思われます。彼等はニーファイ人の敵を援護したと思われます。その異邦人と呼ばれた人たちの生活と活動が、ニーファイ人と、どのように異なっていたかを知り得る情報は不明です。(第四ニーファイ38−39)

    これらの二つの意味は、モルモン書の節で詳細には説明していません。故に、その主旨を理解するのは少々困難を要します。

   


熊襲は誰だったのか?

    記紀によるとその時期に熊襲は筑紫に住んでいました。筑紫は九州の古い名称です。ニーファイ人、レーマン人、そして熊襲達は同じ時期に九州を占拠をしていたので、恐らく、彼等は同じ民族だったと思われます。熊襲に関する情報がニーファイ人とレーマン人に比べて少ないのが残念です。しかし、少ない情報ながらも熊襲は絶えず、大和の天皇に背いていたという事実があります。下記の歴史の証拠十によると、少なくとも大勢の熊襲(ニーファイ人)は大きな戦闘で滅びました。

    熊襲にはニーファイ人とレーマン人と同様に部族間に分けられていました。しかしながら熊襲には統一の中央政権を持っていませんでした。この記録が記紀の中にあります。



結び

    熊襲は預言者リーハイ(神武天皇)と彼の身内の子孫でした。

6 参照:ニーファイ第二書30:1

7 異邦人とは預言者リーハイの子孫ではない人々、つまりイスラエル人ではない人々でした。