歴史の証拠二

預言者リーハイと神武天皇

 

2 諸皇子たちは神武天皇の息子でした。

3 ニーファイは預言者リーハイの四番目の息子でした。

時期:紀元前600年から569年に至る



紹介

    リーハイと神武天皇の歴史の物語はそれぞれ異なった紹介をしています。しかしながら、それらを詳しく研究すると類似点が多く見つけられます。下記はその類似点の参照です参照の最後にその類似点の意味を説明します。


参照

1.預言者リーハイと神武天皇は殆ど同時期に旅立ちました

預言者リーハイ:

リーハイがエルサレムを去った時

  4  さて、ユダの王ゼデキヤの統治第一年の初めに(父リーハイは生まれてこのかたエルサレムに住んでいた)、その同じ年に多くの預言者が現れて、民に向かい、悔い改めなければ大きな都のエルサレムは滅ぼされるに違いないと預言した。

ニーファイ第一書1:4

紀元前約六百年



1  さて、第九十一年が過ぎ去った。それはリーハイがエルサレムを去ったときから六百年であり、その年には、ラコーニアスが大さばきつかさであり、国の総督であった。

第三ニーファイ1:1

紀元約一年



  13  「頭を上げて、元気を出しなさい。見よ、時は近い。今夜、しるしが示され、明日、わたしは世に来る。そしてわたしは、聖なる預言者たちの口を通して語ってきたすべてのことを成就することを、世の人々に示す。」 

第三ニーファイ1:13

紀元前約一年


神武天皇:

神武天皇が東方へ出発した時

[P.91]さてまた塩土の翁に聞くと「東の方に良い土地があり、青い山が取り巻いている。その中へ天の磐舟に乗って、とび降ってきた者がある」と。思うにその土地は、大業をひろめ天下を治めるによいであろう。きっとこの国の中心地だろう。そのとび降ってきた者は、饒速日というものであろう。そこにいって都をつくるにかぎる」と。諸皇子たちも「その通りです。私たちもそう思うところです。速かに実行しましょう」と申された。 この年は太歳の甲寅である。

日本書紀(上)

宇治谷 孟(訳)P.91

神武天皇が即位になった時

P.108]辛酉の年春一月一日、天皇は橿原宮にご即位になった。

日本書紀(上)

宇治谷 孟(訳)P.108


2. 預言者リーハイの約束の地と神武天皇の東方の地

預言者リーハイ:

  20  あなたがたは、わたしの命令を守るかぎり栄えて、約束の地に導かれるであろう。まことにそこは、あなたがたのためにわたしが備えた地であって、それはまことに、ほかのあらゆる地に勝ったえり抜きの地である。

ニーファイ第一書2:20

紀元前約六百年


神武天皇:

上記の類似点1.の日本書紀P.91の参照を使います。


3.預言者リーハイのユダ王国と神武天皇の宇陀の県

預言者リーハイ:

  4  さて、ユダの王ゼデキヤの統治第一年の初めに(父リーハイは生まれてこのかたエルサレムに住んでいた)、その同じ年に多くの預言者が現れて、民に向かい、悔い改めなければ大きな都のエルサレムは滅ぼされるに違いないと預言した。

ニーファイ第一書1:4

紀元前約六百年



  14  主はまた言われた。「あなたがたは約束の地に着いた後、主なるわたしが神であり、また主なるわたしがあなたがたを滅亡から救い出したこと、まことに、わたしがあなたがたをエルサレムの地から連れ出したことを知るであろう。」

ニーファイ第一書17:14

紀元前約五百九十年




神武天皇:

P.96]秋八月二日、兄猾と弟猾を呼ばれた。この二人の人は宇陀の県の人々のかしらである。

日本書紀(上)

宇治谷 孟(訳)P.96



4.預言者リーハイと神武天皇はそれぞれの家族と一緒に旅に出ました

預言者リーハイ:

  4  そして、父は荒れ野へ出て行った。父は自分の家や受け継ぎの地、金や銀、貴重品を後に残して、家族と食糧と天幕のほかは何も持たずに荒れ野へ出て行った。

ニーファイ第一書2:4

紀元前約六百年


神武天皇:

P.90]四十五歳になられたとき、兄弟や子どもたちに言われるのに、

日本書紀(上)

宇治谷 孟(訳)P.90


P.91]さてまた塩土の翁に聞くと「東の方に良い土地があり、青い山が取り巻いている。

その中へ天の磐舟に乗って、とび降ってきた者がある」と。思うにその土地は、大業をひろめ天下を治めるによいであろう。きっとこの国の中心地だろう。そのとび降ってきた者は、饒速日というものであろう。そこにいって都をつくるにかぎる」と。諸皇子たち2も「その通りです。私たちもそう思うところです。速かに実行しましょう」と申された。この年は太歳の甲寅である。

日本書紀(上)

宇治谷 孟(訳)P.91


5. 預言者リーハイと神武天皇のそれぞれの歴史の中には敵方の頭部を切り取る物語が含まれています

    後に紹介する歴史の証拠三の中にはモルモン書のラバンとゾーラムの物語の参照があります。それらの中にも日本書記の兄猾と弟猾という人々の参照があります。


6.預言者リーハイと神武天皇には東方旅路の初めから彼等にとって重要な道連れがいました

預言者リーハイ:

  2  そこで主は父に、わたしニーファイと兄たちを再びエルサレムの地へ帰して、イシマエルとその家族を荒れ野に連れて来させるように命じられた。

  3  そこでわたしニーファイは、再び兄たちとともにエルサレムへ上って行くために、荒れ野へ出て行った。

  4  さて、わたしたちはイシマエルの家に行った。そして、イシマエルの好意を得たので、主の言葉を彼に話した。

  5  そこで主は、まことにイシマエルの心を和らげ、また彼の家族の心も和らげられたので、彼らはわたしたちとともに、父の天幕に向かって荒れ野へ旅をした。

ニーファイ第一書7:2−5

紀元前約六百年


神武天皇:

P.157]カムヤマトイハレビコノミコト[神武天皇]は、兄のイツセノミコトとともに、日向の国の、高千穂の宮にあって国を治めていたが、二人の間に次のような相談が持ち上がった。「この日向の土地はあまりに端に偏している。天下を安らかに治めるためには、どの土地に移って政治を執ったなら、もっと満足がいくだろうか。いろいろと考え合わせてみるに、もっと東のほうへ行ってみたらどうだろう?」

古事記

福永武彦(訳)P.157



7.預言者リーハイと神武天皇は夢の中で神様の命を受けました

預言者リーハイ:

  1  さて見よ、主はまことに夢の中で父に告げてこう言われた。「リーハイよ、あなたはこれまで行ってきたことのために、幸いである。あなたは忠実であり、わたしが命じたことをこの民に告げ知らせたため、見よ、彼らはあなたの命を奪おうとしている。」

  2  そして、主は夢の中で父に、家族を連れて荒れ野へ出て行くように命じられた。

ニーファイ第一書2:1

紀元前約六百年


   

  2  そこで父は、わたしに次のように言った。「見よ、わたしは夢を見た。その夢の中で主は、あなたと兄たちをエルサレムに戻らせるようにわたしに命じられた。

  3  それは見よ、ラバンがユダヤ人の記録とわたしの先祖の系図を持っているからであって、それらは真鍮の版に刻まれている。

  4  それで主はわたしに、あなたとあなたの兄たちがラバンの家へ行ってその記録を何とか手に入れ、それを荒れ野の中のここまで持って来るように命じられたのである。

ニーファイ第一書3:2

紀元前約六百年


神武天皇:

P.95]しかし山の中はけわしくて行くべき道もなかった。進みも退きもならず、迷っているとき、夜また夢を見た。天照大神が天皇に教えていわれるのに,「吾は今、八咫烏を遣わすから、これを案内にせよ」と。はたして八咫烏が大空から飛び降ってきた。天皇がいわれる。「この烏のやってくることは、瑞夢に適っている。偉大なことだなあ。 さかんなことだなあ。天照大神がわれわれの仕事を助けようとして下さる」と。

日本書紀(上)

宇治谷 孟(訳)P.95



P.98]天皇はこれを憎まれた。この夜、神に祈って寝られた。夜に天皇が現れ教えていわれた。「天の香具山の社の中の土を取って、平瓦八十枚をつくり、同じくお神酒を入れる瓶をつくり、天神地祗をお祀りせよ。また身を清めて行う呪詛をせよ。このようにすれば敵は自然に降伏するだろう]と。

日本書紀(上)

宇治谷 孟(訳)P.98



8. 預言者リーハイと神武天皇は神様の案内に従って奇跡の東方旅路に出発

預言者リーハイ:

  9  さて、夜に、主の声が父に語りかけ、翌日に荒れ野へ旅立つように命じられた。

  10  そこで、父が朝起きて天幕の入り口へ出て行ったところ、非常に驚いたことに、地の上に入念な造りの丸い球が一つあった。それは純良な真鍮でできていて、その球の内部には二本の指針があり、その一本は、わたしたちが荒れ野で進むべき方向を指していた。

  16  そして、その球の指す方向へ進んで行ったが、それはわたしたちを荒れ野の中で、より肥沃な場所へ導いて行った。

ニーファイ第一書16:9ー10、16

紀元前約六百年


神武天皇:

P.95]しかし山の中はけわしくて行くべき道もなかった。進みも退きもならず、迷っているとき、夜また夢を見た。天照大神が天皇に教えていわれるのに,「吾は今、八咫烏を遣わすから、これを案内にせよ」と。はたして八咫烏が大空から飛び降ってきた。天皇がいわれる。「この烏のやってくることは、瑞夢に適っている。偉大なことだなあ。 さかんなことだな。天照大神がわれわれの仕事を助けようとして下さる」と。

日本書紀(上)

宇治谷 孟(訳)P.95



9.預言者リーハイと神武天皇の道連れは東方旅路途中に亡くなりました

預言者リーハイ:

  34  そして、イシマエルが死んで、ネホムという所に葬られた。

ニーファイ第一書16:34

紀元前約六百年



神武天皇:

P.93]進軍して紀の国の竈山に行き、五瀬命は軍中に歿くなった。よって竈山に葬った。

日本書紀(上)

宇治谷 孟(訳)P.93


10.預言者リーハイと神武天皇は東に向かって出発

預言者リーハイ:

  1  さて、わたしたちはまた荒れ野の中を旅し、このときからはほぼ東の方へ進んで行った。わたしたちは旅をしながら、多くの苦難を乗り越えていった。そして妻たちは荒れ野の中で子供を産んだ。

ニーファイ第一書17:1

紀元前約六百年



神武天皇:

P.91]さてまた塩土の翁に聞くと「東の方に良い土地があり、青い山が取り巻いている。その中へ天の磐舟に乗って、とび降ってきた者がある」と。思うにその土地は、大業をひろめ天下を治めるによいであろう。きっとこの国の中心地だろう。そのとび降ってきた者は、饒速日というものであろう。そこにいって都をつくるにかぎる」と。諸皇子たちも「その通りです。私たちもそう思うところです。速かに実行しましょう」と申された。 この年は太歳の甲寅である。

日本書紀(上)

宇治谷 孟(訳)P.91



11. 船舶を造って備える

預言者リーハイ:

  8  そこで主は、わたしに言われた。「わたしがこれから示す方法に従って、一隻の船を造りなさい。この大海を越えて、わたしがあなたの民を連れて行けるようにするためである。」

ニーファイ第一書17:8

紀元前約五百九十年



  4  そして、わたしが主の言葉に従って船を造り上げると、兄たちはその出来栄えの良いのと、その造りが非常に見事なのを見た。それで兄たちは、再び主の前にへりくだった。

  5  さて、主の声がわたしの父に聞こえ、わたしたちは立ち上がって船に乗り込むように言われた。

ニーファイ第一書18:4−5

紀元前約五百九十年



神武天皇:

P.92] 三年の間に船舶を揃え兵器や糧食を蓄えて、一拳に天下を平定しようと思われた。戊午の年、春二月十一日に、天皇の軍はついに東に向かった。舳艫相つぎ、まさに難波崎に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いた。

日本書紀(上)

宇治谷 孟(訳)P.92



12.言者リーハイと神武天皇の航海の旅支度

預言者リーハイ:

  8  さて、わたしたちは、命じられた食糧と品物を携えて、一同船に乗り終えると、海に乗り出し、約束の地に向かって追い風に吹かれて進んだ。

ニーファイ第一書18:8

紀元前約五百九十年


神武天皇:

上記の類似点11.の日本書紀P.92の参照。



13.預言者リーハイと神武天皇は航海中に激しい嵐に遭遇しました

預言者リーハイ:

  13  そのため、彼らはどちらへ船を向けてよいか分からず、そのうえ大きな嵐、まことに激しくすさまじい暴風雨が起こり、わたしたちは三日間、海の上をもと来た方へ吹き戻された。彼らは海におぼれてしまうのではないかと非常に恐れたが、それでもわたしを自由にしてはくれなかった。

  14  そして、風に吹き戻されてから四日目、暴風雨が非常に激しくなった。

  15  そこでわたしたちは、まさに海の深みにのまれてしまいそうであった。そして四日間、海の上を吹き戻されたところで、兄たちは神の裁きが自分たちに及んでおり、罪悪を悔い改めなければ滅びてしまうに違いないことに気づき始めた。それで彼らはわたしのもとに来て、わたしの手首を縛っていた縄を解いたが、見よ、わたしの両方の手首は大きくはれ上がり、両方の足首もまたひどくはれて、その痛みは激しかった。

ニーファイ第一書18:13−15

紀元前約五百九十年


神武天皇:

P.94]海を渡るとき急に暴風に遇った。船は波に奔弄されて進まない。稲飯命(天皇の兄)がなげいていわれるのに、「ああ、わが先祖は天神、母は海神であるのに、どうして私を陸に苦しめ、また海に苦しめるのか」と。言い終わって剣を抜いて海に入り、鋤持神となられた。三毛入野命(天皇の兄)もまた恨んでいわれるのに、「わが母とおばは二人とも海神である。それなのにどうして波を立てておばれさすのか」と。波頭を踏んで常世国においでになった。

日本書紀(上)

宇治谷 孟(訳)P.94



14.預言者リーハイと神武天皇の九州との関係

預言者リーハイ:

  10  ところで、南の地はリーハイと呼ばれ、北の地はゼデキヤの息子にちなんでミュレクと呼ばれた。主がミュレクを北の地へ導き、リーハイを南の地へ導いてこられたからである。

ヒラマン第6:10



  28  さて、レーマン人の中でさらに怠惰な者たちは荒れ野にいて、天幕に住んでいた。彼らはニーファイの地に含まれる西方の荒れ野全体に広く住んでおり、また、ゼラヘムラの地の西方の海岸に近い境の地付近にも、さらには、ニーファイの地の西方の、彼らの先祖が最初受け継ぎの地とした所にも住んでいた。このように、彼らは海沿いの境の地に住んでいた。

アルマ書22:28

紀元前約九十年から七十七年に至る



神武天皇:

P.157158]カムヤマトイハレビコノミコト[神武天皇]は、兄のイツセノミコトとともに、日向の国の、高千穂の宮にあって国を治めていたが、二人の間に次のような相談が持ち上がった。

「この日向の土地はあまりに端に偏している。天下を安らかに治めるためには、どの土地に移って政治を執ったなら、もっと満足がいくだろうか。いろいろと考え合わせてみるに、もっと東の方へ行ってみたらどうだろう?」

このように相談がととのい、さっそく日向の国を出発して、のちの筑前筑後である筑紫の国へと向かった。

古事記

福永武彦(訳)P.157158



P.91]筑紫の国の宇佐についた。

日本書紀(上)

宇治谷 孟(訳)P.91



15.預言者リーハイと神武天皇は神様を崇拝しました

預言者リーハイ:

  5  そして父は、まず紅海の海辺に近い境の地の辺りに下って行って、それから、さらに紅海に近い境の地の荒れ野を進んだ。父は荒れ野の中を家族を連れて旅をしたが、その家族とは、母サライアと兄たち、すなわちレーマン、レムエル、サムであった。

  6  さて、父は荒れ野を三日の間旅してから、ある谷で、水の流れている川のほとりに天幕を張った。

  7  そして父は、石で一つの祭壇を築き、主にささげ物をして、主なるわたしたちの神に感謝をささげた。

ニーファイ第一書2:5−7

紀元前約六百年


神武天皇:

P.99]天皇は大いに喜び、この土で多くの平瓦や、手抉、厳瓮などを造り、丹生の川上にのぼって、天神地祗を祀られた。

日本書紀(上)

宇治谷 孟(訳)P.99



16.預言者ニーファイのあらがねの版と神武天皇の平瓦

預言者リーハイ:

  1  さて、わたしは主に命じられたので、民の記録を刻むためにあらがねで版を造った。そして、その版に父の記録と荒れ野での旅のこと、父の預言、またわたし自身が語った多くの預言を刻んだ。

ニーファイ第一書19:1

紀元前約五百八十八年から五百七十年に至る




神武天皇:

P.98]天皇はこれを憎まれた。この夜、神に祈って寝られた。夢に天皇が現われ教えていわれた。「天の香具山社の中の土を取って、平瓦八十枚をつくり、同じくお神酒を入れる瓶をつくり、天神地祗をお祀りせよ。また身を清めて行う呪詛をせよ。このようにすれば敵は自然に降伏するだろう]と。

日本書紀(上)

宇治谷 孟(訳)P.98



P.99]天皇は大いに喜び、この土で多くの平瓦や、手抉、厳瓮などを造り、丹生の川上にのぼって、天神地祗を祀られた。

日本書紀(上)

宇治谷 孟(訳)P.99



17.預言者リーハイと神武天皇の東方の旅路は凡そ同じ期間を要しました

預言者リーハイ:

エルサレムを去りました

  2  そして、主は夢の中で父に、家族を連れて荒れ野へ出て行くように命じられた。

  3  そして、父は主の言葉に従順であったので、主が命じられたとおりにした。

  4  そして、父は荒れ野へ出て行った。父は自分の家や受け継ぎの地、金や銀、貴重品を後に残して、家族と食糧と天幕のほかは何も持たずに荒れ野へ出て行った。

  5  そして父は、まず紅海の海辺に近い境の地の辺りに下って行って、それから、さらに紅海に近い境の地の荒れ野を進んだ。父は荒れ野の中を家族を連れて旅をしたが、その家族とは、母サライアと兄たち、すなわちレーマン、レムエル、サムであった。

ニーファイ第一書2:2−5

紀元前約六百年



アラビア砂漠にあて紅海に近いネホムという所に宿りました

  34  そして、イシマエルが死んで、ネホムという所に葬られた。

ニーファイ第一書16:34

紀元前約六百年



東に向かって八年の後に海に至りました

  1  さて、わたしたちはまた荒れ野の中を旅し、このときからはほぼ東の方へ進んで行った。わたしたちは旅をしながら、多くの苦難を乗り越えていった。そして妻たちは荒れ野の中で子供を産んだ。

ニーファイ第一書17:1

紀元前約六百年

  4  そしてわたしたちは、長い間、まことに八年もの間荒れ野の中にとどまった。

  5  そして、果実と野蜜が豊かであることからバウンティフルと名付けた地に来た。これらのものはすべて、わたしたちが滅びないように主が備えてくださったのであった。わたしたちはここで海を見て、イリアンタムと名付けた。それは多くの水という意味である。

ニーファイ第一書17:4−5

紀元前約五百九十年



船を造りました

[8] そこで 主は、わたし に 言われた。「わたし が これから 示す方法に 従って、一隻の 船を 造り なさい。この 大海を 越えて、わたし が あなた の 民を 連れて行ける よう に する ため で ある。」

ニーファイ第一書17:8

紀元前約五百九十年


約束の地に航海しました

[8] さて、わたしたち は、命じられた 食糧と 品物を 携えて、一同船に 乗り 終える と、 海に 乗り出し、 約束の 地に 向かって 追い風に 吹かれて 進んだ。

ニーファイ第一書18:8

紀元前約五百九十年


[23] そして、幾日も 航海した 後、わたしたち は 約束の 地 に 着いた。そして 陸 に 上がって 天幕を 張り、そこ を 約束 の 地 と 名付けた。

ニーファイ第一書18:23

紀元前約五百九十年



神武天皇:

P.107]三月七日、令を下していわれた。「東征についてから六年になった。天神の勢威のお蔭で凶徒は殺された。しかし周辺の地はまだ治まらない。残りのわざわいはなお根強いが、内州の地は騒ぐものもない。皇都をひらきひろめて御殿を造ろう。

日本書紀(上)

宇治谷 孟(訳)P.107



P.158]さらにそこから移って、筑紫の、岡田の宮に一年ほどいた。またその国からさらに上って、のちの安芸である阿岐の国の、多祁理の宮に七年ほどいた。またその国からさらに東に上って、吉備の、高島の宮に八年ほどいた。

古事記

福永武彦(訳)P.158




18.預言者リーハイと神武天皇は凡そ同じ時期に逝去しました

リーハイの死の時

   12  そして父リーハイは、自分の心に感じるままに、また自分の内にある主の御霊に従って、自分の家のすべての者に語った後、年老いて、死んで葬られた。

ニーファイ第二書4:12

紀元前約五百八十八年から五百七十年に至る



この一節はリーハイの死後に書かれた物です

  28  そして、わたしたちがエルサレムを去ってから三十年が過ぎた。

ニーファイ第二書5:28

紀元前約五百七十年


神武天皇の死の時

P.110]七十六年春三月十一日、天皇は橿原宮で崩御された。年百二十七歳であった。

日本書紀(上)

宇治谷 孟(訳)P.110



19.預言者リーハイと神武天皇は王家の設立者でした

預言者リーハイ:

 13  今やゼラヘムラの民はすべて、ニーファイ人とともに数えられた。それは、ニーファイ3の子孫である人々のほかに、だれにも王位が授けられなかったからである。

モーサヤ書25:13

紀元前約百二十年



  20  わたしはモルモンであり、リーハイの生っ粋の子孫である。神であって救い主であるイエス・キリストをわたしが賛美するのは正当である。神はわたしたちの先祖をエルサレムの地から連れ出された。(このことは神御自身と、その地から連れ出された人々のほかにはだれも知らない。)また、神はわたしとわたしの民に、わたしたちが救われるように多くの知識を与えてくださった。

  21  確かに神はヤコブの家を祝福し、ヨセフの子孫に憐れみをかけてこられた。

  22  また、リーハイの子孫が神の戒めを守るかぎり、神は御自分の言葉のとおりに彼らを祝福し、栄えさせてこられた。

第三ニーファイ5:20−22




説明

    この節では預言者リーハイと神武天皇の物語を比較しています。上記で参照したものを比較対照しています。この二人の物語の歴史の中には類似点が沢山あります。

    例えば、預言者リーハイの物語はモルモン書の初めの二つの書の中に見つけられます。その情報はリーハイの息子預言者ニーファイによって書かれました。

    神武天皇の物語は記紀に記述してあります。下記の表でその類似点を挙げました。年表についてはリーハイの物語に沿って比較しました。神武天皇の物語の年表はところどころに矛盾が見られ、さらに、多くの出来事が随分後になって加えられていたと思われます。双方の物語の歴史には多くの類似点があると同時に相違点もまた多く見られます。

    例えば、ニーファイ人と日本人の言語は相違しているためモルモン書と記紀に出て来る地名と名称は当然ながら相違しています。そのために、モルモン書と記紀を比較することは困難を要します。しかしながら、研究を進める中での発見をすることによって、この比較研究を一層確信のあるものと致します。日本の歴史の実際の起源はその比較研究に基づいたものです。



類似点

1.預言者リーハイと神武天皇は殆ど同時期に旅立ちました。

    モルモン書は預言者リーハイがエルサレムを王ゼデキヤの統治第一年目の初期に去りました。 (参照:ニーファイ第一書1:4ウィキペディアによると王ゼデキヤの統治は紀元前約597に始まりました。モルモン書によるとリーハイがエルサレムを去った時期はイエス・キリストが生まれた600年間前でした。 (参照:第三ニーファイ1:1 )ウィキペディアによるとイエス・キリストの生まれは紀元前約5年に起こりました。それらの期間には多少の矛盾が見られますが、ここでは預言者リーハイがエルサレムを去るときを紀元前600年とします。

    神武天皇は辛酉の正月にご即位になった。 (参照:日本書紀(上)P.108) ウィキペディアによるとそれは紀元前660年です。神武天皇が東方征伐を始めたのは七年間前でした。それは太歳の甲寅でした。(参照:日本書紀(上)P.91)ですからそれは、紀元前約667年の時でした。

    ここで注目したいのは、神武天皇と預言者リーハイの東方旅路の目的と行動が一致しているという点です。神武天皇の実際の東方征伐に出かけた時期は紀元前600年とするならば、口承の歴史と実際の歴史の年間の差は67年間になります。日本書紀の歴史の物語は紀元後720年に書き終わりましたが、紀元前600年から紀元720年までの差は1320年間です。1320年間から67年間の相違時期は五パーセントに過ぎません。もし、日本書紀が口承からの物語ということを認識しておけば、それらの相違点は一致するはずです。


2.預言者リーハイの約束の地と神武天皇の東方の地

    約束の地へ向かうことは預言者リーハイの目的でした。それは特別な地だったからです。神様が預言者リーハイに告げた次の言葉に注目して下さい。「あなたがたは、わたしの命令を守るかぎり栄えて、約束の地に導かれるであろう。まことにそこは、あなたがたのためにわたしが備えた地であって、それはまことに、ほかのあらゆる地に勝ったえり抜きの地である。

(参照:ニーファイ第一書2:20その約束の地は東方にありました。(参照:類似点10.)

    そして神武天皇の目的も東方の地へ向かうことでした。次の日本書紀の塩土の翁が神武天皇に告げた言葉を読んでください。「東の方に良い土地があり、青い山が取り巻いている。その中へ天の磐舟に乗って、とび降ってきた者がある」。

    記紀の口承の記録は、時の流れとともに、理解の困難さが残るとしても、基本的な要素が記紀の中にあります。


3.預言者リーハイのユダ王国と神武天皇の宇陀の県

    預言者リーハイの故郷はエルサレムでした。参照:ニーファイ第一書1:4その故郷はユダ王国の首都でした。そしてそれは紀元前600年でした。神武天皇の物語の中にもあるその場所の名前には類似点があります。それは「宇陀」です。(参照:日本書紀(上)宇治谷 孟(訳)P 96)歴史の証拠三を読めば宇陀の県とユダの王国は同じ場所だと説明されていると思います。


4.預言者リーハイと神武天皇はそれぞれの家族と一緒に旅に出ました

    預言者リーハイは約束の地に向かって東方旅路に家族と一緒に旅立ちました。(参照:ニーファイ第一書2:4)神武天皇も同じように東方征伐に家族と一緒に旅立ちました。 (日本書紀(上)宇治谷 孟(訳)P.90、91)


5. 預言者リーハイと神武天皇のそれぞれの歴史の中には敵方の頭部を切り取る物語が含まれています

    この出来事の中の物語はとても長いのでここでそれを述べる事は避けます。歴史の証拠三を参照してください。


6.預言者リーハイと神武天皇には東方旅路の初めから彼等にとって重要な道連れがいました

    預言者リーハイの道連れはイシマエルという男性でした。約束の地に通じた東方旅路の前半に彼の娘たちを預言者リーハイの息子たちと結婚させました。イシマエルと預言者リーハイが家族の一員であったかどうかは不明です。恐らく、彼等はお互いに信頼していた仲だったと思われます。なぜならば、預言者リーハイは彼を説得して旅の道連れにしました。(参照:ニーファイ第一書7:25)

    神武天皇の道連れは兄の五瀬命でした 五瀬命が家族と共に旅に出たかどうかは不明です。(参照:古事記 福永武彦(訳)P.157)


7.預言者リーハイと神武天皇は夢の中で神様の命を受けました

    この節の参照によると預言者リーハイと神武天皇は夢の中で神様の指導を受けました。そして彼らはその指導に従いました。


8.預言者リーハイと神武天皇は神様の案内に従って奇跡の東方旅路に出発

    預言者リーハイにとってその奇跡の案内は球形の羅針盤でした。神武天皇にとってその奇跡の案内は八咫烏という大きいなカラスでした。しかしそれは賀茂建角身命の化身だったと伝えられています。それぞれの奇跡の東方の旅路は正しい方向に向かって進みました。


9.預言者リーハイと神武天皇の道連れは東方旅路途中に亡くなりました

    預言者リーハイの道連れであるイシマエルは東方旅路の前半で亡くなりネホムという所に葬られました。正確な場所は不明です。しかしそれは紅海の近くにありました。どのように彼が亡くなったかは不明です。

    一方の神武天皇の道連れである五瀬命は東方旅路の後半で亡くなりました。それは戦闘で受けた傷のせいでした。 (預言者リーハイの旅の仲間たちは神武天皇の軍に交わっていたと記紀の中で伝えています。)

    イシマエルの死はこの節の類似点4の事件の後にありました。日本書記によると、この事件は類似点4の事件の前に起こったとあります。 それはモルモン書と記紀の年表の解釈が異なっている例だと言えます。


10.預言者リーハイと神武天皇は東に向かって出発

    紀元前約600年預言者リーハイはエルサレムを去って初めに紅海の近くに旅しました。その期間の長さは不明です。恐らく一年以下と考えられます。後に彼はアジアを渡って日本までの長い旅路に出ました。(参照:地理の証拠二)神武天皇については東方の旅路は、東方征伐であったと日本書紀の口承の中で述べられています。


11. 船舶を造って備える

    中国の東の海岸に到着後、預言者リーハイの息子たちの預言者ニーファイと兄弟は船舶を一隻造りました。それを用いて東方旅路を続け、九州に向かって航海しました。

    神武天皇は「三年の間に船舶を揃えました」。「彼の軍はついに東に向かって」船舶で航海に出ました。(参照:日本書紀(上)P.92)預言者リーハイの船舶はたった一隻であったのに対して、神武天皇は幾つかの船舶を揃えていたと日本書記で伝えています。

    双方は東に向かって航海の旅路を続けました。預言者リーハイの目的というのは約束の地に定住することでした。それに対して神武天皇の目的はその国を征服することでした。


12.預言者リーハイと神武天皇の航海の旅支度

    預言者リーハイの東方旅路の航海は最後の部分でした。彼はアジアの海岸から九州の西海岸に到着して目標を達成しました。この下記の日本書紀の一節は同じ事件を描写していると考えられます。「 三年の間に船舶を揃え兵器や糧食を蓄えて、一拳に天下を平定しようと思われた。戊午の年、春二月十一日に、天皇の軍はついに東に向かった。舳艫相つぎ、まさに、難波崎に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いた。」(日本書紀(上)P.92)


13.預言者リーハイと神武天皇は航海中に激しい嵐に遭遇しました

    この一節を読むと預言者リーハイと神武天皇の激しい嵐の事件は類似しています。取り分け「風に吹き戻されて」そして「船は波に奔弄されて進まない。」この二つの節の意味は神様の仕業によって遭遇した嵐でした。


14.預言者リーハイと神武天皇の九州との関係

    モルモン書は「主がミュレクを北の地へ導き、リーハイを南の地へ導いて」と言っています。(参照:ヒラマン書6:10 )南の地は九州であると第一巻.地理の証拠で述べています。ですから預言者リーハイは九州に到着しました。さらにこの一節があります:「ニーファイの地の西方の、彼らの先祖が最初受け継ぎの地とした所にも住んでいた。このように、彼らは海沿いの境の地に住んでいた。」(参照:アルマ書22:28)「地理の証拠の地図三」によるとニーファイの地は現在の熊本県と鹿児島県であったと思われます。推理すると預言者リーハイは熊本県または鹿児島県の西海岸に沿って到着したと思われます。彼はそこで自分の晩年を過ごしました。

    神武天皇の東方征伐の初めについて古事記の中にこの引用があります。「このように相談がととのい、さっそく日向の国を出発した、のちの筑前筑後である筑紫の国へと向かった。」(参照:古事記 P.158)最初に「日向の国」の意味を考えましょう。預言者リーハイの祖国はエルサレムでした。その祖国の気候は日本より温暖でした。その祖国(エルサレム)とは恐らく神武天皇(リーハイ)の日向の国であったと考えられます。神武天皇(リーハイ)はその祖国(エルサレム)から東方旅路の最終地である九州(筑紫)に上陸しました。


15.預言者リーハイと神武天皇は神様を崇拝しました

    この上記で挙げた節によると預言者リーハイと神武天皇は共にとても敬虔な人達でした。そして神様に従って犧牲を惜しみませんでした。


16.預言者ニーファイのあらがねの版と神武天皇の平瓦

    預言者ニーファイは預言者リーハイの息子でした。「ニーファイ第一書19:1」によると神様はその息子ニーファイにあらがねの版を造るように命じました。(補足: 預言者リーハイもニーファイも既に別の版を持っていました。 そして、その後にニーファイの子孫によって彼等の歴史が版に刻まれました。)その目的は彼等の歴史を永遠に守るためでした。モルモン書は預言者ジョセフ・スミスによって幾つかの版を神様の力で1830年に英語で翻訳されました。

    対照的に神武天皇の土から造ったものは平瓦でした。それ故に、それぞれの異なった版と平瓦の類似点を追求することは歴史学上重要であり、真の目的を可能にするためにも重要な課題です。


17.預言者リーハイと神武天皇の東方旅路は凡そ同じ期間を要しました

    預言者リーハイのエルサレムから九州までの東方旅路は全部で五箇所に渡っています。(1)エルサレムからネホムという場所までの期間、(2) ネホムで宿る期間、(3) ネホムから中国の東の海岸までの期間(4)海岸で宿る期間、そして(5)九州までの航海の期間。

    (1)と(2)の期間は不明ですが、この期間に費やした旅路は少なくとも一年間にも及ぶと思われます。

(3)のアジアの陸地を渡る旅路に費やした期間は八年間でした。( ニーファイ第一書17:4−5)

    (4)の期間の間に預言者リーハイの家族は船舶を造りました。これに費やした期間は不明です。しかし日本書紀によると神武天皇は三年間の間に船舶を備えました。リーハイの船舶を造る期間も神武天皇のそれと同じぐらい要したと思われます。(参照:日本書紀(上)P.92)

    (5)の期間は他の期間に比べると数日間だけの短い旅路でした。ニーファイ第一書18:23)この期間を正確に評価するためにはリーハイの正確な中国の海岸の位置を知らなければ成りません。しかしながらその位置は不明です、が、それは大凡数週間だったと思われます。上の全期間に費やした時期は総計すると(一年間、八年間、三年間、そして数週間)十二年間だったと思われます。

    一方、神武天皇の東方征伐の期間は預言者リーハイの期間よりも不確かです。 しかしながら、日本書紀(上)P.107 の一節によると神武天皇の東方征伐は六年間だったと述べています。さらに古事記 P.158の一節によると神武天が東方征伐をしながら三つの場所に宿った期間は十八年間だったと述べています。

    ですから、預言者リーハイの過ごした十二年間は日本書紀の六年間と古事記の少なくとも十八年間の間にあります。


18. 預言者リーハイと神武天皇は凡そ同じ時期に逝去しました

    預言者リーハイは紀元前約六百年にエルサレムを去りました。(参照:類似点1) そして約束の地に着いた時期は凡そ紀元前約五百八十八年でした。(参照:類似点16)彼が逝去した時期の経緯について、モルモン書では紀元前約五百八十八年から五百七十年に至ることを記録しています。( 参照:ニーファイ第二書5:28、ニーファイ第二書4:12)ですから、彼の死亡時期は紀元前約五百八十八年から紀元前約五百六十九年に渡っていると考えられます。

神武天皇の逝去の時期は日本書紀に参照があります。(参照:日本書紀(上)P.110)

その時期は五百八十五年でした。(ウィキペディアを参照してください。)そしてその時期はモルモン書に記録してある年号と凡そ同じ時期です。


19. 預言者リーハイと神武天皇は王家の設立者でした

    モルモン書によると預言者リーハイはニーファイ人とレーマン人という民の祖先でした。 さらに、彼は自分の息子である預言者ニーファイを通してニーファイ人の王家の設立者に成りました。(参照:モーサヤ書25:13)

    同じく神武天皇は日本の皇位の設立者に成りました。下記の歴史の証拠の中ではどのようにしてニーファイ人の中の一団の人々が分裂して日本の皇位を樹立したかを紹介しています。つまり、日本の天皇の家長制度はニーファイ人の家長制度から受け継がれていることを証明することが来ます。


結び

族長の預言者リーハイと神武天皇は同一人物でした。