歴史の証拠一

年表

 

時期:紀元前600年から紀元後421年に至る


紹介

    この歴史の証拠一ではモルモン書の中の年表と記紀の中の年表を比べています。


参照

イエス・キリストの生まれた時

1  さて、第九十一年が過ぎ去った。それはリーハイがエルサレムを去ったときから六百年であり、その年には、ラコーニアスが大さばきつかさであり、国の総督であった。

第三ニーファイ1:1

紀元約一年



モルモン書の記入した最後の日付

  1  さて、わたしモロナイは、自分がよいと思うままに少し書き記す。わたしは同胞であるレーマン人に書き記す。キリストの来臨のしるしが現れてから、すでに四百二十年以上たったことを知ってほしい。

モロナイ書10:1

紀元後約四百二十一年



表一.初期:天皇系図

この系図は宮内庁のウェブサイト(http://www.kunaicho.go.jp/about/kosei/keizu.html)を掲載。

 

表三. モルモン書の重要な出来事

表四. ニーファイ人の王

注釈:

1.リーハイはニーファイ人とレーマン人の族長でした。モルモン書の歴史はニーファイ人の記録に基づいて書かれています。しかしながら彼等はレーマン人についてはあまり触れていません。なぜならば彼等はお互いに不変の敵対関係にあったからです。


2.リーハイの息子ニーファイはニーファイ人の最初の王でした。彼も預言者とニーファイ人の霊的な指導者でした。ほとんどのニーファイ人の政治的指導者は霊的な指導者でもありました。そしてその体系を長期間に渡って維持しました。それは日本の天皇の体系に似ています。


3.ニーファイニ世の実際の名前はモルモン書の中で言及されていません。


4.上記の王ニーファイニ世と王モーサヤ(1)の間の約二世紀間の歴史の情報が幾つか欠けています。


5.王モーサヤ(1)の統治の初期から終局の日付は知られていません。しかしながら、王ベニヤミンの統治の最後の日付だけは知られています。彼は王モーサヤ(1) の息子でした。そして王モーサヤ()はベニヤミンの息子でした。「今やゼラヘムラの民はすべて、ニーファイ人とともに数えられた。それは、ニーファイの子孫である人々のほかには、だれにも王位が授けられなかったからである。」 (モーサヤ25.13)

    この節によるとニーファイ人の王はニーファイの子孫でなければなりませんでした。この因習は今日でも日本の天皇制度として引き継がれています。 日本の天皇の系図は初期の綏靖天皇まで遡ります。その初期の天皇である綏靖天皇は実はリーハイの息子であるニーファイでした。


6.王権の統治が終結した後に裁き司統治の時代が始まりした。次の表を見てください。



表五. ニーファイ人の大裁き司

注釈:

7.王モーサヤ一世の孫のモーサヤ(2)はニーファイ人の最後の王でした。それによって、彼の息子たちも王の位置を継承しなければなりませんでしたが、彼らはそのことに興味を示しませんでした。様々な理由でモーサヤは王国制度の代わりに裁き司の統治を樹立しました。しかしながらその計画はニーファイ人の持つ王国制度の勢力には及びませんでした。そのために大裁き司はたびたび暗殺されました。その結果、多くのニーファイ人は再び王国制度を復活させようとしました。


8. アルマはニーファイ人の最初の大裁き司でした。彼はニーファイ人の大祭司でもありました。その時ニーファイ人の首都は筑紫平野の中にありました。そこは筑後川の近辺にありました。ニーファイ人はその首都をゼラヘムラの町と呼びました。そして、その筑後川をシドン川と呼びました。


9.モルモン書では裁き司の時代とニーフィア人の暮らしについて詳細に述べられています。特に、その時代はモルモン書によるとニーファイ人とレーマン人が戦った場所であり軍事行動の描写をした場所でもあったからです。


これによって、約束の地の地理についての情報が数多く見つける事が出来ます。この期間にもう一つの重要な歴史的背景を見つけることが出来ます。それは、ニーファイ人が九州を去って本州に移動し始めたという事です。


10.ラコーニアスという最後の大裁き司が暗殺されました。それは紀元30年に起こりました。その後、ニーファイ人は幾つかの部族に分裂しました。



表六. ニーファイ人の将軍

表二. ニーファイ人と天皇の統治

注釈:

11.紀元33年にイエス・キリストは十字架で議性になり、その後復活した彼は北九州でニーファイ人の集団に現れました。彼はニーファイ人の中に彼の教会を樹立しました。その後、ニーファイ人は長期間に渡って平安の時代を享受しました。しかし、彼らは紀元約230年までに預言者たちが預言したように「不信仰になり、悪に陥っていった。」(参照:第四ニーファイ1.34)


12.イエスの出現から預言者モルモンが生まれるまでの期間の、ニーファイ人の歴史については詳細な情報がありません。


13.紀元約311年にモルモンは生まれました。この期間には、ニーファイ人はまだ部族間に分かれたままだったと思われます。推理すると、その時点にはニーファイ人は筑紫平野と北九州に定住するだけでなく、西南の本州にも定住しました。その時、ニーファイ人には王がいなかったと思われます。なぜならばこの期間にはモルモン書の中にはニーファイ人の王について述べられていません。その時代に誕生したモルモンは勇敢な人物でした。そして体躯に恵まれていました。日本武尊もそうであったように、彼は若年齢で将軍に成りました。彼は十六歳の時にニーファイ人の指導者と成り、そして将軍でもありました。モルモン書の名前はモルモンから名付けられました。彼はモルモン書をニーファイ人の記録から編集しました。彼も神様の預言者でした。彼は何度もニーファイ人の先頭に立ってレーマン人と戦いました。七十四歳という老年期になっても、モルモンは先頭に立ち、最後まで闘い挑みました。しがしながら、その戦争で大きく頁傷し、その後の戦闘で命を落としました。ニーファイ人は最後の戦闘でレーマン人と大和人によって琵琶湖の付近で滅びました。モルモンの息子モロナイは父モルモンの死後に、モルモンを代わって最後の書を書き終えました。モロナイの最後の記入は紀元後約421年でした。


14. 日本書記の19世紀のイギリス人の翻訳者 WG. アストンによると、神功皇后と応神天王の統治時代の日付が凡そ120年間にも及ぶと記録されていますが、この日付の記録には多少の飛躍が見られます。 この記録については、彼の本から幾つかの注釈が下記にあります。 (Nihongi, Chronicles of Japan from the Earliest Times to A.D. 697, Translated from the Original Chinese and Japanese by W. G. Aston, C.M.G., Tuttle Publishing, c. 1972, から)


一.「The date given for this in the Nihongi is A.D. 353, to which, as in the case of other events of this period, two cycles or 120 years should probably be added.(紹介、p. xivこの日本書紀にある日付は紀元後353年。この期間に他の出来事が発生していますので、この期間を付け加えると、統計で120年になるのでは、と考えられます。


二.「Even so late as the beginning of the 5th century the chronology can be shown to be wrong in several cases by no less an interval than 120 years. (紹介、pxix 五世紀の始まりに見られる年表でも幾つかの事例に120年間の誤りが見られます。


.The first date in the Nihongi which is corroborated by external evidence is A.D. 465, but the chronology is not a little vague for some time longer. Perhaps if we take A.D. 500 as the time when the Nihongi dates begin to be trustworthy, we shall not be very far wrong.(紹介、pxx日本書記の年表に見られる形式的な証拠は最初の日付が紀元後の465年です。しかしながらその日付はあいまいです。考えるに、その年表は紀元後の500年の日付に注目することに信頼性があると思います。


四.「 Silla prince named Misaheun (in Japanese Mishikin) was sent as hostage to Japan in A.D. 402. It is clear from what follows (A.D. 205) that this is the same person.(第一巻 p .231, 注釈5)ミシキンとい新羅の王子は紀元後402年に人質にとられて日本に送られました。下記の事から(日本書紀の日付205年に)これは同一人物と考えられます。


五.「This is mentioned almost in the same words by the “Tongkam”  under date A.D. 385 - just two cycles later.(第一巻 p .253, 注釈2)これは東国通鑑で紀元後385年にほとんど同じ言葉で言われました。それはちょうど二周期後でした。

   

六.「Motoori (“Kojikiden,” XXXIII. 39) shows that, like other events relating to Corea in this part of the “Nihongi,” this immigration must be dated 120 years later. p.265、注釈1)本居(本居宣長、「古事記伝」、第三十三巻.39)は日本書記に見られる他の出来事が韓国におけるそれと関連性がありこの移民の日付は120年後だったと結論されます。


七.他の参照は紹介pxii, 第一巻 p.247注釈1、p.251注釈4、6、p.252注釈1、p.253注釈1、p.256注釈1、p.257注釈6、p.262注釈5、そして p.267注釈6。


    この120年間の誤差は様々な資料、そして情報収集を重ねることによって解決できると確信しています。



説明

1.この年表を容易に表すために出来事の位置の割り付けはおおまかです。


2.上記の年表のそれぞれの天皇の統治日付は慣例的なものです。それらはウィキペディアで見つけられます


3.ニーファイ人の歴史の日付は末日聖徒イエス・キリスト教会の欽定のモルモン書の中にあります。各章の紹介の中の日付は殆ど取り上げられています。1


4.モルモン書の日付は記紀の日付より正確と思われます。なぜならば、ニーファイ人は出来事が起こる度にそれらを書き記していました。取り立てこれらの出来事の中に、はイエス・キリストの出生と死についてモルモン書の中で明確に記してあります。そしてほとんどのモルモン書の中の日付は、イエス・キリストの生まれた時から確定することが出来ます。 (参照:第三ニーファイ1:1)

    他方、記紀の日付については口承で語り伝えられていますので、正確さに欠けます。

さらに、神功皇后の統治間から日本書紀の日付は韓国の古代史の日付と比べると、120年間以上の隔たりがあります。この相違点は重要な事柄です。上記の注釈14を参照してください。


5.重要な日付

以下の日付は、最初の部分を除いてモルモン書に明示されていないため、特別な注意が必要です。

紀元前600年モルモン書は預言者リーハイはエルサレムを王ゼデキヤの統治第一年目の初期に離れました。 (参照:ニーファイ第一書1:4)ウィキペディアによると王ゼデキヤの統治は紀元前約597年に始まりました。モルモン書によるとリーハイがエルサレムを離れた時期はイエス・キリストが生まれた600年間前でした。 (参照:第三ニーファイ1:1 )それによるとイエス・キリストは紀元前約5年に生まれました。それらの期間には多少の矛盾が見られますが、ここでは預言者リーハイがエルサレムを離れた時を紀元前600年とします。

紀元前役588年:リーハイは南九州に到着しました。彼のエルサレムから九州までの東方の旅路は全部で五箇所に渡っています。(1)エルサレムからネホムという場所までの期間、(2) ネホムで宿る期間、(3) ネホムから中国の東の海岸までの期間(4)海岸で宿る期間、そして(5)九州までの航海の期間。

(1)と(2)の期間は不明ですが、この期間に費やした旅路は少なくとも一年間にも及ぶと思われます。

(3)のアジアの陸地を渡る旅路に費やした期間は八年間でした。( ニーファイ第一書17:45)

(4)の期間の間に預言者リーハイの家族は船舶を造りました。これに費やした期間は不明です。しかし日本書紀によるとは三年間の間に船舶を備えました。リーハイの船舶を造る期間ものそれと同じぐらい要したと思われます。(参照:日本書紀(上)P.92)

(5)の期間は他の期間に比べると数日間だけの短い旅路でした。(ニーファイ第一書18:23)この期間を正確に評価するためにはリーハイの正確な中国の海岸の位置を知らなければ成りません。しかしながらその位置は不明です、が、それは大凡数週間だったと思われます。上の全期間に費やした時期は総計すると(一年間、八年間、三年間、そして数週間)十二年間だったと思われます。リーハイは紀元前588年に九州に到着しました。





紀元前役210年:モーサヤ1がゼラヘムラに逃げた年

モーサヤ1がゼラヘムラに逃げた年はモルモン書の中に明示されていないので私は表三.七の年表を作りました。この大切な日付は私の推定値です。

正確な日付を想定するのは困難です。しかしながら確実に言えるのはその事件は紀元前280年(オムナイ書の5節)と紀元前154年(モーサヤ書29:46)の間が確実な日付と裏付けが出来ます。

モーサヤ2の誕生と逝去の年は、モルモン書で最もよく記録された日付の中のものです。かれはモーサヤ1の孫でした。モーサヤ2の誕生年と逝去年は紀元前154年と91年でした。(モーサヤ書6:4-5, 29:46、そして、第三ニーファイ2:5-6) その表にある他の日付を得るために、私はモルモン書に記された日付から逆に換算しています。




結び

    ニーファイ人の歴史はリーハイとその身内がエルサレムの地から脱出した時から始まります。それは、紀元前600年でした。(参照:第三ニーファイ1:1)紀元前約588年に彼らは九州に到着しました。ニーファイ人の歴史は凡そ紀元後421年に彼らの全滅のために終わります。(モロナイ書10:1)

    日本記紀によると、は紀元前660年に日本の王朝を樹立しました。記紀の口述は正確さに欠けますが、この年表についてはニーファイ人の歴史と一致しています。

    モルモン書の日付の方は記紀より正確です。

 

1 しかしながらモルモン書のエテル書の中には日付がありません。この書にはニーファイ人の歴史について述べられていません。しかしながらヤレド人という太鼓の文明については述べられています。ヤレド人は縄文時代の最後の時代に日本に住んでいました。日本の歴史ではその時代について言及していないのでヤレド人については第二巻の考古学の証拠の中に論じられます。