歴史の証拠十

預言者モルモンと日本の内戦

 

時期:紀元後200年から385年後に至る



紹介

長い年月を経て記録されたニーファイ人の歴史と彼らの最後の結末は、正しく預言者モルモン自身の歴史であり、後世にその文献を残した偉大な歴史家でした。彼はニーファイ人の最後の指導者であり、将軍として勇敢に戦ってきました。彼の偉大な文献の記録は彼の名前であるモルモン書として預言者ジョセフ・スミスによって出版されました。老年になっても、一戦士として勇敢に振る舞った栄誉は、今も後世に語り告げられています。下記のモルモン書の中にある「モルモン書」の参照はその中の一部を紹介しています。注釈:その書の中でモルモンは九州に住んでいたレーマン人(預言者リーハイの子孫)と本州に住んでいた大和人の両方の民を「レーマン人」と呼びました。モルモンがどの民について述べていたのかを知るためには、モルモン書と記紀を詳しく比較しなければなりません。(参照:歴史の証拠五)



参照

モルモン書

 13  そして、神の御霊がほかの異邦人にも働きかけ、彼らが囚われの身の上から逃れて大海を渡って行くのが見えた。

  14  そして、約束の地に大勢の異邦人の群れがいるのが見え、神の激しい怒りが兄たちの子孫に下り、彼らが異邦人の前から散らされ、打ち負かされるのが見えた。

  15  またわたしは、主の御霊が異邦人のうえにあって、彼らがまことに栄えてその地を受け継ぎとして得るのを見た。また彼らが、殺される前のわたしの民のように肌の色が白く、非常に麗しく美しいのが見えた。

  30  しかしながら、あなたは見る。囚われの身を逃れる異邦人、ほかのあらゆる地に勝ったえり抜きの地、すなわち、あなたの子孫が受け継ぎの地として所有すると、主なる神があなたの父に聖約された地の面において、神の力によってすべてのほかの国民より高められる異邦人を。それゆえ、あなたの兄たちの中に生きている、あなたの子孫で血が混じった者たちが、この異邦人によってことごとく滅ぼされてしまうのを、主なる神は許されない。このことをあなたは見る。

ニーファイ第一書 13: 13−15、30

紀元前約六百年から五百九十二年に至る



  20  わたしはモルモンであり、リーハイの生っ粋の子孫である。神であって救い主であるイエス・キリストをわたしが賛美するのは正当である。神はわたしたちの先祖をエルサレムの地から連れ出された。(このことは神御自身と、その地から連れ出された人々のほかにはだれも知らない。)また、神はわたしとわたしの民に、わたしたちが救われるように多くの知識を与えてくださった。

第三ニーファイ、ニーファイの書5:20



  47  さて、第三百五年が過ぎ去り(民は依然として悪い状態であり)、アモスが死んで、彼の兄弟アマロンが彼に代わって記録を書き継いだ。

  48  さて、第三百二十年が過ぎ、アマロンは聖霊に強く促されて、神聖な数々の記録、言い換えれば、キリストの来臨から第三百二十年まで代々伝えられてきたすべての神聖な記録を隠した。

  49  彼はそれらの記録が主の預言と約束のとおりに、ヤコブの家の残りの者に再び伝えられるように、それらの記録を主に託して隠したのである。これでアマロンの記録は終わる。

第四ニーファイ、ニーファイ の 書1:47−49



  1  さて、わたしモルモンは、自分がこれまでに見聞きしたことを記録して、これをモルモン書と呼ぶ。

  2  アマロンは数々の記録を主に託して隠したころ、わたしのところにやって来た。(当時わたしは十歳くらいで、わたしの民の教育方法に従ってかなり教育を受け始めていた。)そして、アマロンはわたしに言った。「わたしはあなたがまじめな子供で、観察が鋭いことを知っている。

  3  だから、あなたが二十四歳くらいになったら、この民についてあなたが見てきたことを思い出してもらいたい。そして、その年齢になったら、アンタムの地の、シムと呼ばれる丘15へ行きなさい。そこにわたしは、この民のことが刻まれているすべての神聖な記録を、主に託して隠してある。

  4  見よ、あなたはニーファイの版を取り出し、残りの版は今それがある場所にそのままにしておきなさい。そして、この民についてあなたが見てきたことをすべてニーファイの版に刻みなさい。」

  5  わたしモルモンはニーファイの子孫であり(わたしの父の名もモルモンであった)、わたしはアマロンから命じられたことを思い出した。

  6  さて、わたしは十一歳のとき、父に連れられて南方の地16、ゼラヘムラへ行った。17

  7  地の全面が建物でいっぱいであり、人々はまるで海の砂のように大勢であった。

  8  さてこの年に、ニーファイ人とヤコブ人、ヨセフ人、ゾーラム人から成るニーファイ人の間に戦争が始まった。この戦争は、ニーファイ人に対して、レーマン人とレムエル人とイシマエル人が戦ったものであった。

  9  ところで、レーマン人とレムエル人、それにイシマエル人はレーマン人と呼ばれていたので、この戦いはニーファイ人とレーマン人との間で行われたものであった。

  10  さて、その戦争は、シドンの水のそばにあるゼラヘムラの境で始まった。

  11  そしてニーファイ人は、三万人を越える大勢の兵を集めていた。この年に彼らは何度も戦い、ニーファイ人はレーマン人を打ち負かして、多くの者を殺した。

  12  そこでレーマン人は彼らの企てを捨て、地は平和になった。そして、およそ四年間平和が続き、まったく流血がなかった。

  13  しかし、悪事が全地の面に広がったので、主は御自分の愛する弟子たちをよそに連れ去ってしまわれた。そして、民の罪悪のために、奇跡と癒しの業はやんだ。

  14  また、民の悪事と不信仰のために、主から何の賜物も与えられず、聖霊はだれにも降られなかった。

  15  わたしは十五歳で、多少まじめな心の持ち主であったので、主の訪れを受け、イエスの慈しみを味わって知った。

  17  しかし、わたしは民の中に残った。それでも、彼らの心がかたくなであったので、彼らに教えを説くことは禁じられた。そして、彼らがかたくなであったので、地は彼らのためにのろわれた。

モルモン書1:1−15、17

紀元約三百二十一年から三百二十六年に至る



  1  さて、その同じ年に、ニーファイ人とレーマン人の間で再び戦争が始まった。そして、わたしは若かったにもかかわらず、身の丈が高かったので、ニーファイの民はわたしを彼らの指揮官に、すなわち彼らの軍の指揮官に任命した。

  2  そこでわたしは、十六歳になる年に、ニーファイ人の軍隊を率いてレーマン人に向かって出て行った。当時、すでに三百二十六年が過ぎ去っていた。

  3  さて、第三百二十七年に、レーマン人が非常に大きな力で攻めて来たので、わたしの軍隊は彼らにおびえて戦おうとせず、北の地方に向かって退却し始めた。

  4  そして、わたしたちはアンゴラの町に着いて、その町を占領し、レーマン人に対して自衛する準備をした。わたしたちは力の限りその町の防備を固めた。しかし、わたしたちは防備を固めたにもかかわらず、レーマン人に攻められ、その町から追い出された。

  5  わたしたちはまた、彼らによってダビデの地からも追い出された。

  6  そこで、わたしたちは軍隊を進め、海岸に近い西の境にあるヨシュアの地に着いた。

  7  そしてわたしたちは、自分たちの民を一団として集めることができるように、可能なかぎり速やかに民を集めた。

  8  しかし見よ、地には強盗とレーマン人が満ちていた。また、ひどい滅亡がわたしの民に迫っていたにもかかわらず、わたしの民は、自分たちの邪悪な行いを悔い改めなかった。そのために、地の全面でニーファイ人とレーマン人の双方に流血と虐殺が広がった。それは地の全面に広がった一つの完全な変革であった。

  9  さて、レーマン人には王がおり、その名をアロン18といった。彼は四万四千人の軍隊を伴って、わたしたちを攻めて来た。そこで見よ、わたしは、四万二千人で彼らに立ち向かった。そして、自分の軍隊で彼を打ち負かし、彼はわたしの前から逃げ出した。そのようなことがあって、三百三十年が過ぎていった。

モルモン書2:1−9

紀元約三百二十七年から三百三十一年に至る



  23  そこでわたしは、自分の民に語り、レーマン人の前に断固として立ちはだかって自分たちの妻子と家と家庭を守るために戦うように、大いに力を込めて彼らに勧めた。

  24  すると彼らは、わたしの言葉で多少奮い立ったので、レーマン人の前から逃げることなく、勇ましく彼らに立ち向かった。

モルモン書2:23−24

紀元約三百四十六年



  28  第三百四十九年が過ぎ去った。第三百五十年に、わたしたちはレーマン人およびガデアントンの強盗たちと条約を結び、その条約によって分割された受け継ぎの地を得た。

  29  レーマン人は北方の地を、南方の地に通じる地峡までわたしたちに譲り、わたしたちは南方の地をすべてレーマン人に譲った。

モルモン書2:28−29

紀元約三百四十六年



  2  そして、主はわたしに言われた。「この民に、『悔い改めてわたしのもとに来てバプテスマを受け、わたしの教会を再建しなさい。そうすれば、あなたがたは救われる』と宣言しなさい。」

  3  そこでわたしはこの民に宣言したが、無駄であった。これまで彼らの命を助け、彼らに悔い改めの機会を与えてこられたのが主であることを、彼らは悟っていなかった。そして見よ、彼らは主なる神に対して心をかたくなにした。

モルモン書3:2−3

紀元約三百六十年



  5  そこでわたしは、自分の民をデソレションの地に、すなわち南方の地に通じる地峡のそばの境の地にある町に集めた。

  6  わたしたちはまた、レーマン人の軍隊を阻止し、わたしたちの土地を少しも占領させないように、軍隊を配置した。そのように、わたしたちは総力を挙げて彼らに対する防備を固めた。

モルモン書3:5−6

紀元約三百六十一年



  11  そこでわたしモルモンは、この民の悪事と忌まわしい行いのために、彼らの司令官となり指揮官となることを、このとき以来きっぱりと断るようにした。

モルモン書3:11

紀元約三百六十二年



  16  さて、わたしは敵に向かって上って行くことをきっぱりと断り、主から命じられたとおりにした。わたしは、将来起こることについて証をされた御霊の示しのとおりに、自分が見聞きしたことを世の人々に明らかにする証人になった。

モルモン書3:16

紀元約三百六十二年



  16  その後、第三百七十五年まで、レーマン人は再びニーファイ人を攻めて来ることはなかった。

  17  しかしこの年に、彼らは全軍でニーファイ人に向かって攻め下って来た。彼らの人数はあまりにも多くて、数えられなかった。

  18  このとき以来、ニーファイ人はレーマン人に勝つ力を得られず、朝日に露が消えるようにレーマン人によって一掃され始めた。

  19  そしてレーマン人は、デソレションの町に攻め下って来た。そして、デソレションの地で非常に激しい戦いがあり、その戦いでレーマン人がニーファイ人を打ち負かした。

  20  そこでニーファイ人は、レーマン人の前からまた逃げ出し、ボアズの町に至った。そして、彼らはそこで非常に勇ましくレーマン人に立ち向かったので、レーマン人は二度目の攻撃をかけるまでニーファイ人を打ち負かせなかった。

  21  そして、レーマン人が二度目に攻め寄せたとき、ニーファイ人は追い払われ、非常に大勢の者が殺された。さらにニーファイ人の女子供が、また偶像のいけにえにされた。

  22  そこでニーファイ人は、彼らの前からまた逃げ、方々の町や村のすべての民を一緒に伴って行った。

  23  わたしモルモンは、レーマン人がまさに全土を征服しようとしているのを見て、シムの丘へ行き、アマロンが主に託して隠しておいたすべての記録を取り出した。

モルモン書4:1623

紀元約三百七十五年



 1  さて、わたしはニーファイ人の中に出て行き、彼らをもう助けないと以前に誓った誓いを取り消した。すると彼らは、わたしなら自分たちを苦難から救い出せるであろうと考え、わたしにもう一度ニーファイ人の軍の指揮権を与えた。

モルモン書5:1

紀元約三百七十五年から三百八十年に至る



 1  さて、これでわたしの民、ニーファイ人の滅亡についてのわたしの記録を終わりにする。わたしたちは、レーマン人の前に進軍した。

  2  そして、わたしモルモンは、レーマン人の王に手紙を書いて、クモラと呼ばれる丘に近いクモラの地に民を集め、そこでレーマン人と戦えるようにするのを認めてほしいと頼んだ。

  3  そこで、レーマン人の王はわたしが求めたことを認めてくれた。

  4  そこで、わたしたちはクモラの地に進軍し、クモラの丘の周りに天幕を張った。その丘は多くの水と川、泉のある地にあった。わたしたちはここで、レーマン人に対して優位に立てることを期待した。

  5  三百八十四年が過ぎ去ったとき、わたしたちは民の残っている者を全員クモラの地に集め終えていた。

  6  そして、わたしたちが民を全員一団としてクモラの地に集め終えたとき、見よ、わたしモルモンは老いが進んでいた。わたしは、これが自分の民の最後の戦闘であることを知っており、また、先祖から伝えられてきた神聖な記録をレーマン人の手に渡してはならないと主から命じられていたので(レーマン人はそれらの記録を損なうからである)、わたしはニーファイの版からこの記録を作り、主の手によってわたしに託されたすべての記録をクモラの丘に隠した。そして、このわずかな版だけを息子モロナイに渡す。

  7  さて、わたしの民は妻子たちとともに、レーマン人の軍隊がこちらに向かって進んで来るのを見た。そして、すべての悪人の胸に満ちているあのひどく死を恐れる気持ちをもって、レーマン人を迎え撃とうと待ち受けた。

  8  そして、レーマン人がわたしたちに攻めかかって来た。すると、レーマン人がおびただしい人数であったので、わたしの民は一人残らず恐れでいっぱいになった。

  9  そしてレーマン人は、剣と弓、矢、斧、そのほかあらゆる武器でわたしの民に襲いかかった。

  10  そこでわたしの民、すなわちわたしとともにいた一万人の者が切り倒され、わたしも負傷してその中に倒れた。すると、レーマン人はわたしを殺さず、わたしのそばを通り過ぎて行った。

  11  彼らは通り過ぎて、わたしたちの中の二十四人(この中にはわたしの息子モロナイもいた)を除くわたしの民をことごとく切り倒した。そこで、レーマン人が彼らの宿営に引き揚げた翌日、生き延びたわたしたちがクモラの丘の頂上から、わたしの民の死んだ者たちを見たところ、わたしが率いて指揮を執っていた一万人が切り倒されているのが見えた。

  12  また、息子モロナイが指揮を執っていた一万人も見えた。

  13  また見よ、ギドギドーナの一万人が倒れており、ギドギドーナもその中に倒れていた。

  14  また、レーマも彼の一万人とともに倒れており、ギルガルも彼の一万人とともに倒れており、リムハも彼の一万人とともに倒れており、ジェニウムも彼の一万人とともに倒れており、クメナイハとモロナイハ、アンテオヌム、シブロム、セム、ヨシもそれぞれの一万人とともに倒れていた。

  15  そしてほかにも、十人の者とそれぞれの一万人が剣で倒れていた。まことに、わたしの民は、わたしとともにいた二十四人と、南の地方へ逃げて行った少数の者と、レーマン人のもとへ脱走した少数の者を除いて、全員が倒れていた。そして、彼らの肉と骨と血は、彼らを殺した者の手によってそのまま放置されて地の面にあり、地上で朽ち、また朽ち果てて母なる大地に返るに任された。

モルモン書6:115

紀元約三百八十五年



  8  そして見よ、それを行われたのは主の手である。また見よ、レーマン人も互いに戦い合っていて、この地の全面が殺人と流血の絶えない有様を見せており、だれも戦争の終わる日を知らない。

モルモン書8:8

紀元後約四百一年


  13  見よ、これでこの民について述べるのを終える。わたしはモルモンの息子であり、わたしの父はニーファイの子孫であった。

モルモン書8:13

紀元後約四百一年


 3  そして主は、その地を去るように夢の中でオメルに警告された。そこでオメルは、家族を連れてその地を去り、幾日もの間旅をして、シムの丘のそばを通り、ニーファイ人が滅ぼされた地方の近くを通り、そこから東の方に向かって、海岸に近いアブロムと呼ばれる地方に着いた。そして彼はそこに天幕を張り、またヤレドと彼の家族を除く、オメルの息子たちと娘たち、およびオメルの家のすべての者が皆、そこに天幕を張った。

エテル書9:3



  23  わたしは主に言った。「主よ、わたしたちの物を書き記す力が弱いので、異邦人はこれらのことをあざけるでしょう。主よ、あなたはわたしたちを、信仰によって言葉に力のある者とされましたが、物を書き記す力のある者とはされませんでした。あなたはこの民に聖霊をお授けになり、聖霊のためにすべての者が大いに語れるようにされました。

  24  また、わたしたちの手が不器用であったために、わたしたちがわずかしか書けないようにされました。まことに、あなたはわたしたちを、ヤレドの兄弟のように物を書き記す力のある者とはされませんでした。あなたはヤレドの兄弟を物を書き記す力のある者とされたので、彼の書き記したことはあなた御自身のように力強く、それを読む者を圧倒するほどのものとなりました。

  25  あなたはまた、わたしたちの言葉を力強くまた大いなるものとし、わたしたちがそれを書き記せないほどのものとされました。そのため、わたしたちは書き記すときに、わたしたちの弱さを知り、またわたしたちの言葉の用法を誤ってしまいます。ですから、異邦人がわたしたちの言葉をあざけるのではないかと心配です。」

  26  わたしがこのように言うと、主はわたしに言われた。「愚か者はあざけるが、後に嘆き悲しむ。わたしの恵みは柔和な者に十分であり、彼らがあなたの弱さに付け込むことはない。

  27  もし人がわたしのもとに来るならば、わたしは彼らに各々の弱さを示そう。わたしは人を謙遜にするために、人に弱さを与える。わたしの前にへりくだるすべての者に対して、わたしの恵みは十分である。もし彼らがわたしの前にへりくだり、わたしを信じるならば、そのとき、わたしは彼らの弱さを強さに変えよう。

  28  見よ、わたしは異邦人に彼らの弱さを示し、また信仰と希望と慈愛が彼らをわたしのもとに、すなわち、あらゆる義の源に導くことを彼らに示そう。」

  29  わたしモロナイは、これらの御言葉を聞くと慰めを得て言った。「おお、主よ、あなたの義の御心が行われますように。わたしはあなたが人の子らのために、彼らの信仰に応じて働かれることを存じています。

エテル書12:23−29



  2  見よ、レーマン人同士の戦争が今非常に激しい。また、彼らは憎しみのために、キリストを否定しないニーファイ人をすべて殺している。

  3  わたしモロナイはキリストを否定しないので、命の安全を得られる場所を求めてさまよっている。

モロナイ書1:2−3

紀元約四百年から四百二十一年に至る



  24  また、もし彼らが滅びるならば、わたしたちが知っているように、わたしたちの同胞の多くがすでにレーマン人のもとに脱走して行ったが、もっと多くの者がレーマン人のもとに脱走して行くであろう。ところで、もしあなたが命を助けられ、わたしが死んであなたに会えないようであれば、少し書き記しなさい。しかしわたしは、もうすぐあなたに会えると確信している。あなたに渡したい神聖な記録を持っているからである。

モロナイ書9:24

日付不明






記紀

[153]そこでこの二人の王を名づけて大碓・小碓といった。小碓尊はまたの名を日本童男。または日本武尊という。幼い時から雄々しい性格であった。壮年になると、容貌は溢れるばかりの逞しさであった。身丈は一丈、力は鼎を持ち上げられるほどであった。

日本書紀(上)

宇治谷 孟(訳)P.153



[163]冬十月十三日、 日本武尊を遣わして、熊襲を討たせた。このとき、年は十六歳。

日本書紀(上)

宇治谷 孟(訳)P.163



[166]日本武尊は将軍の位を賜わり、両拝して、「かつて西征のときは、皇威を頼り、三尺の短い剣をもって、熊襲の国を討ち、そして幾ばくもなく賊将は罪に服しました。

日本書紀(上)

宇治谷 孟(訳)P.166



[180]二年春一月十一日、気長足姫尊を皇后とされた。これより先に叔父彦人大兄の女、大中媛を妃とされた。麛坂皇子・忍熊皇子を生んだ。次に来熊田造の祖である大酒主の女、弟媛を娶とって、誉屋別皇子を生んだ。

日本書紀(上)

宇治谷 孟(訳)P.180



[181−1]このとき熊襲が叛いて貢をたてまつらなかった。

日本書紀(上)

宇治谷 孟(訳) P.181


[181−2]八年春一月四日、筑紫においでになった。

日本書紀(上)

宇治谷 孟(訳) P.181


[183]秋九月五日、群臣に詔して熊襲を討つことを相談させられた。

日本書紀(上)

宇治谷 孟(訳) P.183



[184]天皇はなおも信じられなくて、熊襲を討たれたが、勝てないで帰った。

九年春二月五日、天皇は急に病気になられ、翌日はもう亡くなられた。

日本書紀(上)

宇治谷 孟(訳) P.184

[132]一に云はく、天皇、親ら熊襲を伐ちたまひて、賊の矢に中りて崩りましぬというふ。

日本書紀(二)

岩波書店 P.132

   


[192]皇后は新羅から還られた。二十月十四日、後の応神天皇(誉田別皇子)を筑紫で産まれた。

日本書紀(上)

宇治谷 孟(訳)P.192


[195]それで将軍として東国の兵を起こさせた。

日本書紀(上)

(訳)P.195



[197]三月五日、武内宿禰と和珥の臣の先祖武振熊に命じて、数万の兵を率いて忍熊王を討たせた。武内宿禰らは精兵をえらんで、山城方面に進出した。宇治に至って川の北にたむろした。 忍熊王は陣営を出て戦おうとした。そのときに熊之凝という者があり、忍熊王の軍の先鋒となった。味方の兵を激励しようと、声高らかに歌をよんで、


彼方の疎林の松原に進んで行って、

槻弓に鏑矢をつがえ、


貴人は貴人同士、親友は親友どうし、

さあ戦おう、われわれは。


武内朝臣の腹の中には、

小石が詰まっている筈はない。

さあ戦おうわれわれは。

日本書紀(上)

宇治谷 孟(訳)P.197



[198]武内宿禰は精兵を出して追った。近江の逢坂で追いついて破った。それでそこを名づけて逢坂という。なお逃げた兵は狭狭浪(近江の地名)の栗林に至って多く斬られた。血は流れて栗林に溢れた。このことを嫌がって今に至るまで、栗林の菓を御所に奉らない。

日本書紀(上)

宇治谷 孟(訳)P.198


[167−四]近江の逢坂。万葉三二三六によると、当時宇治(菟道)から近江に出るには阿後尼原・山料の石田を経て逢坂を越えた。

[167−五]狭狭浪は仲哀記に沙沙那美。近江国滋賀郡のあたりの総名。ゆえに万葉にも「ささなみのしが」(例、三一の左散難弥乃志我)という表現が多い。

[167−六]栗林は、この地帯に含まれる近江国滋賀郡の粟津(今、滋賀県大津市膳所の粟栖。催馬楽の鷹の子に「安波川乃原(粟津の原)乃美久留須(御栗林)の。。。」とある。

日本書紀(二)

岩波書店 P.167


説明

紀元後約200年:背景

    一方で、イエス・キリストの出現から紀元後200年までは、九州に住んでいたニーファイ人とレーマン人の間に争い事はなく、平和な時間を過ごしていました。(参照:第四ニーファイ、ニーファイの書23)しかし、その後彼らは再び二つの競合している集団に分かれました。ニーファイ人が信者としてイエス・キリストの敬虔な教えに従って行動していたのに対して、レーマン人はイエス・キリストの教えに反抗的な行動を取るようになりました。故に、彼らはお互いに牽制する仲になってしまいました。(参照:第四ニーファイ、ニーファイの書34−39)その結果、彼らはそれぞれの道を歩き始めました。

その時期にはニーファイ人には王がいませんでした。記紀の歴史によると、その頃、日本(大和)には、すでに天皇が存在していました。19 しかしながら、大和人(日本人)はイエス・キリストを崇拝してはいませんでした、それでもニーファイ人を迎え入れました。そしてお互いに繁栄を目的として協力し合いました。その後天皇の命により九州を克服した日本武尊に相対して天皇はニーファイ人(熊襲)を牛耳るように成りました。(参照:日本書紀(上)P.166)  その時期に九州に住んでいたレーマン人はニーファイ人に対して恨みを抱き続けていました。彼らはニーファイ人の真の敵でした。そのことに大和人はニーファイ人に同情していました。事実、ニーファイ人は大和人の祖先でした。(参照:歴史の証拠六)

    この時期にはニーファイ人は平和な暮らしを送っていました。しかしながらそのニーファイ人は大和人に時々反抗的な行動を取り初めました。そのニーファイ人の行動とは相反してレーマン人は天皇を敬うようになりました。その結果、紀元後約321年にニーファイ人の反乱に依って興した戦争で逆に彼等の死滅を誘発してしまいました。紀元約385年には、ニーファイ人は完全に敗北してしまいました。それは大内戦の始まりでした。その結果、レーマン人も同じように全滅しまいました。(参照:モルモン書8:8, モロナイ書1:23)生き残りのニーファイ人とレーマン人(熊襲)は天皇の統治下で日本人として暮らし始めました。(参照:モルモン書6:115、モロナイ書9:24, ニーファイ第一書 13: 1315、30)



紀元後311年:モルモンの誕生

    大和(奈良の王国)でモルモンは誕生し、そこで十一歳まで成長しました。そのモルモンは大和人(日本人)であったと私は信じます。彼の父の名もモルモンでした。残念ながら母親についての情報は現時点で不明ですが、彼等はは大和(日本)の皇族の出身であったように思われます。預言者モルモンは彼が預言者リーハイと預言者ニーファイの子孫であったと述べていました。20 (参照:第三ニーファイ5:20モルモン書1:5、モルモン書8:13[息子モロナイの陳述]) 彼は、神武天皇と綏靖天皇の子孫であったと考えられます。



紀元後321:十歳の少年モルモン

    アマロンという名の男性がニーファイ人の記録を保持していました。 彼は神様の啓示に従って、預言者リーハイを筆頭に次世代へと伝える使命を持っていました。 (参照:第四ニーファイ書1:47-49) 彼はその目的のためにモルモンを訪ねました。この出来事に関してモルモンは自分の言葉で述べています。


 2  アマロンは数々の記録を主に託して隠したころ、わたしのところにやって来た。(当時わたしは十歳くらいで、わたしの民の教育方法に従ってかなり教育を受け始めていた。)そして、アマロンはわたしに言った。「わたしはあなたがまじめな子供で、観察が鋭いことを知っている。

 3  だから、あなたが二十四歳くらいになったら、この民についてあなたが見てきたことを思い出してもらいたい。そして、その年齢になったら、アンタムの地の、シムと呼ばれる丘へ行きなさい。そこにわたしは、この民のことが刻まれているすべての神聖な記録を、主に託して隠してある。

 4  見よ、あなたはニーファイの版を取り出し、残りの版は今それがある場所にそのままにしておきなさい。そして、この民についてあなたが見てきたことをすべてニーファイの版に刻みなさい。」

 5  わたしモルモンはニーファイの子孫であり(わたしの父の名もモルモンであった)、わたしはアマロンから命じられたことを思い出した。  ( モルモン書1:2−5)


アマロンとモルモンの以前の関係は不明です。



紀元後322年:父は十一歳に成ったモルモンをゼラヘムラへ運びました

父はモルモンを本州からゼラヘムラ(筑紫平野)へ運びました。(参照:上記で挙げたモルモン書1:6とその脚注) モルモン書で「運ぶ」という言葉を使用したのには、モルモンの身分に関連していると思われます。日本でいう身分の高い人を籠に乗せて、道中を旅した大名行列に近いものがあります。その後、預言者モルモンは父のことについて何も述べていませんので彼の運命については不明です。

    この年にゼラヘムラ(筑紫平野)で戦争がニーファイ人の民とレーマン人の民の間に始まりました。(参照:モルモン書1:8)  その戦争は約一年間ほど続きましたがニーファイ人が勝利を治めました。21

    当初モルモンは九州に住んでいたニーファイ人の中ではよそ者でした。しかし彼は少しずつ彼らの生活に溶け込みました。(モルモン書1:17)


紀元後326年:十五歳のモルモンはキリスト教に改宗

    少年期のモルモンは、まだキリスト教徒ではなかったと思われます。前回で述べていますが、彼は本州の奈良地方(現日本)で生誕し成長しましたので、イエス・キリストが九州地方に降臨するまで、キリスト教に紹介される機会がありませんでした。しかし成長の過程で九州に住んでいたニーファイ人と親密が深まり、彼らを通してイエス・キリストについての学習を真剣に勉学し始めました。モルモンが十五歳を迎えたある日、神様が彼のそばに来ていると感じました。 (参照:モルモン書1:15) そして神様はモルモンに告げました。それはニーファイ人には神様について説教してはならないということでした。(参照:モルモン書1:16)



紀元後327年:十六歳の将軍モルモン

預言者モルモンとして成長した彼は、 背丈も大きく立派な体躯を兼ね備えた青年将校へと昇進し、ニーファイ人の指揮官になりました。それより数年前には、モルモンと同じように立派に成長した青年がいました。彼の名前は日本武尊といい、やはり若くして指揮官と成りました。(参照:モルモン書2:1−2、日本書紀上P.153、163) 彼等は両方ともその時十六歳でした



紀元後331年:二十歳のモルモンと敵対王アロンの最初の戦闘

モルモン書によると紀元331年にレーマン人にはアロンという名の王が統治支配をしていました。そのアロンをモルモンはある戦闘で彼を敗北させました。 (このアロン王と武内宿禰は同一人物だったと思われます。上記のモルモン書2:9とその補足を参照して下さい。)



紀元後335年: 二十四歳の預言者モルモンはシムの丘に行きました

    シムの丘でモルモンはアマロンの命令通りニーファイの版を掘り出しました。(参照:モルモン書2:17)



紀元後350年:三十九歳の将軍モルモンとニーファイ人は九州の領土を失う

    紀元350年には長期に渡り九州に住んでいたレーマン人との戦闘の末に、ニーファイ人の母国とも言える九州を敗戦によりいました。(参照:モルモン書2:28−29) その結果、南西にある本州へと移動を余儀なくされてしまいました。勝利を得たレーマン人は九州を占拠しました。本州へ移動したニーファイ人はそこで大和人(日本人)に出会いました。彼らはニーファイ人に好意的でした。しかしながら、天皇は大和人の威厳を見せ示すためにニーファイ人を彼らの配下に置きたいと願っていました。

   


紀元後360年:四十九歳に達した預言者モルモンは神様からニーファイ人に説教するように命じられた

    その時、彼は指導者としての使命を果たすために彼等を説教しましたが、彼等は従いませんでした。(参照:モルモン書3:2−3)



紀元後361年: 五十歳に成ったモルモンはニーファイ人とともにデソレションの町の防御を確立しました

ニーファイ人は九州の領土を失った後に、九州を占拠したレーマン人から逃れて関門海峡のすぐ北側にある町に住居を構え、レーマン人からの侵略を防御しました。その町の名前はデソレションと言いました。 (参照:モルモン書3:5ー6)



紀元後約362年ー紀元後375年: ニーファイ人は生活を悔い改めようとしなかったために、モルモンは彼等の指導を断ちました。(参照:モルモン書3:11、16、モルモン書5:)

   


紀元後375年: レーマン人はデソレションの町をまたたくまに占領しました

    その時にレーマン人はニーファイ人を西南本州から北方へ追放し始めました。モルモンは全てのニーファイ人の記録をシムの丘から取り戻しました。(参照:モルモン書4:16ー23)



紀元後380ー385年に至る: ニーファイ人から大和の王への要請

ニーファイ人が南から北方に逃走するなかで、モルモンはレーマン人の王、すなわち大和の大臣、武内宿禰(アロン王)に手紙を書き記しました。(参照:モルモン書6:2)その手紙の内容は、九州と西南の本州を追われたニーファイ人が琵琶湖の近江盆地(クモラの地)に逃れたため、大和の王にその地に居住することが出来る許可を得るための内容でした。そのためにはニーファイ人は大和の領土を越える事が必要でした。アロン王(武内宿禰)は少なからずニーファイ人に好意的でしたので、その要求を受け入れてくれました。(参照:モルモン書6:)

その許可により、一時的にでもニーファイ人は西南日本にいた敵(レーマン人)から攻撃を避けることができました。しかしながら武内宿禰はモルモンに幾つかの条件を与えたと思われます。モルモンはその条件を受諾して譲歩しましたが、それらの詳細については述べませんでした。その詳細の一つは武器を持っている数の制限だったと思われます。この条件下でニーファイ人は西南日本にいた敵から一時的に逃避することができました。


紀元後385年:七十四歳に成った将軍モルモンとニーファイ人の最後の偉大な戦闘

この一時的な平安は続きませんでした。日本書紀によると仲哀天皇の死後、権力争いが始まりました。それは仲哀天皇の息子たちと神功皇后の間で争れました。(彼等の名前は上記で紹介されました:日本書紀(上)宇治谷孟(訳)P.180、P.192 )ニーファイ人はどちらの派閥を支持するか、を決めなければなりませんでした。日本書紀によると反乱者は「東国の兵を起こさせた。」(日本書紀(上)P.195)それは、琵琶湖の東に住んでいたニーファイ人の参照と思われます。

ここで権力争いがもとで二つの派閥に別れた人々の身分や立場を整理してみましょう!


1.権力争いの発展:仲哀天皇の逝去

2.次代の後継者の選択

3.支持者


派閥1の人々(王党)

1.神功皇后

2.誉田別皇子(神功皇后の幼い息子、応神天皇)

3.武内宿禰(神功皇后の司令長官)

4.西南日本に住んでいたレーマン人


派閥2の人々(反乱者)


1.麛坂皇子(仲哀天皇の大中媛という家内の成人の息子)22

2.忍熊皇子(司令長官、仲哀天皇の大中媛の成人の息子)

3.モルモン(ニーファイ人の司令官)

4.近江盆地に住んでいたニーファイ人


    後継者選びから生じた争いは、大きな戦闘に発展し、ニーファイ人の運命を決定するまでに拡大していました。23 モルモンとニーファイ人はクモラの丘(現在の滋賀県野洲市に位置する三上山(近江富士))に拠点を置き、その山の周りに天幕を張って戦闘に備えました。 (参照:モルモン書6:4、地理の証拠十八)

    最後の偉大な戦闘で全てのニーファイ人が全滅しました。24(少数の人々を除いては)


ここで、最後の大戦闘のニーファイ人の拠点と、動静を大筋に紹介したいと思います。25

初めにニーファイ人によると兵士は三上山に拠点を置きました。

2.その戦闘の初めに預言者モルモン(熊之凝)はこの有名な歌を歌いました。26


彼方の疎林の松原に進んで行って、

槻弓に鏑矢をつがえ、


貴人は貴人同士、親友は親友どうし、

さあ戦おう、われわれは。


武内朝臣の腹の中には、

小石が詰まっている筈はない。

さあ戦おうわれわれは。

日本書紀(上)

宇治谷 孟(訳)P.197


3. そこから南方にある宇治で戦闘が始まりました。(日本書紀(上)宇治谷孟(訳)P.197)

4. 戦闘が進行するとその戦闘の場所は次第に他の領土に移って行きました。そこは北方にある近江の逢坂山にまで拡大して行きました。この場所は京都から大津(現在の滋賀県の首都)までの国道1号沿いの地峡です。 そこは逢坂山の近くにあったと思われます。)(日本書紀(二)、岩波書店 P.167ー四)

5 ニーファイ人がこの場所を戦闘の拠点に選んだのは、二つの理由からです。一つは敵の軍隊から攻撃を防衛するためだったと思われます。(逢坂山に入る通路は非常に狭かったために、敵が侵入するのは困難でした。)もう一つの理由は、ニーファイ人の家族が逢坂山の後ろにある三上山に住んでいたため、彼等の家族を守るためでした。

6.しかしながら、この戦闘はニーファイ人には不利な戦争でした。 (日本書紀(上)、宇治谷孟(訳)P.198と日本書紀(二)岩波書店 P.167ー五、六)

7.ニーファイ人の軍隊はそこで全滅しました。彼等の家族と民も全滅してしまいました。


    惨敗に終わった戦闘後にモルモンはこう述べています:


そしてほかにも、十人の者とそれぞれの一万人が剣で倒れていた。まことに、わたしの民は、わたしとともにいた二十四人と、南の地方へ逃げて行った少数の者と、レーマン人のもとへ脱走した少数の者を除いて、全員が倒れていた。そして、彼らの肉と骨と血は、彼らを殺した者の手によってそのまま放置されて地の面にあり、地上で朽ち、また朽ち果てて母なる大地に返るに任された。

モルモン書6:15


    上記のモルモン書の一節と、下記の日本書紀の類似点を比較して下さい。


武内宿禰は精兵を出して追った。近江の逢坂で追いついて破った。それでそこを名づけて逢坂という。なお逃げた兵は狭狭浪(近江の地名)の栗林に至って多く斬られた。血は流れて栗林に溢れた。このことを嫌がって今に至るまで、栗林の菓を御所に奉らない。

日本書紀(上)宇治谷 孟(訳)P.198


    この二つの節を考えると、その意味はその場所で起こった戦闘が、日本の古い歴史で記録されてある中で最も残酷なものの一つでした。上記の日本書紀の一節はモルモン書6:15のように死体は埋葬されなかったとそれとなく示しています。


    預言者モルモンはこの戦闘を生き残りましたが、後の戦闘で殺されました。モルモンの息子モロナイだけが生き残って幾つかの記録を書き残しました。 その時点で、ニーファイ人の歴史が終わりました。


紀元後385年後:日本の大内戦

    この上記に説明した戦闘は、すでに始まった大内戦の部分でした。この時期に天皇は九州に住んでいたレーマん人(預言者リーハイの子孫)にも勝ち、そして天皇の権力を固めたと思われます。(参照:モルモン書8:8、モロナイ書1:2−3) 推理すると大勢の韓国からの移民者はこの戦争に参加したと思われます。戦闘で生き残った、レーマン人とニーファイ人は異邦人と一緒に生活を共にしました。天皇がこの動乱の時期に、難を逃れて、天皇の威厳と勢力と君臨を守ったのは驚くべきことです。



結び

   予言者モルモンと熊之凝は同一人物でした。

    王朝臣と武内宿禰は同一人物でした。

    モルモン書と記紀はニーファイ人の最後の偉大な戦闘を描写しています。



15 その丘は関門海峡の北そしてクモラの地(近江盆地)の南でした。オメルというヤレド人は関門海峡のそばから「幾日もの間旅をして、シムの丘のそばを通り、ニーファイ人が滅ぼされた地方の近くを通り」ました。(参照:エテル書9:3、地理の証拠十五)ニーファイ人が滅ぼされた地方はクモラの地(近江盆地)でした。(参照:地理の証拠十八)


16 九州はニーファイ人によって「南方の地」と呼ばれていました。筑紫平野はニーファイ人によって「ゼラヘムラの地」と呼ばれていました。(地理の証拠十九と二十六)


17 この日本語の公式の翻訳は直訳ではありません。英語でこの節は「And it came to pass that I, being eleven years old, was carried by my father into the land southward, even to the land of Zarahemla.」「連れられて行った」より「運ばれた」と呼ぶ方は正確です。それは大きい差をしています。下記の説明でその理由を述べています。


18 同時期に記紀の中に出てくる大臣武内宿禰はアロン王と同人物だったと思われます。(アロン王は長年に渡って王の位置を確立していました。そのアロン王の統治下の時期に天皇が存在していなかった時期がありました。その時期には夫の仲哀天皇亡き後に、神功皇后が統治をしていました。)ニーファイ人の著作が単純なものだったので、モルモンは「大臣」という言葉を発見し書き表すことが不可能だったと思われます。(参照:エテル書12:23−25)そのためにモルモンは「王」と言う言葉を使いました。

    歌人熊之凝は、武内宿禰が戦った大きな戦闘の前に、武内宿禰を武内朝臣と呼びました。(参照:(一)日本書紀(上)p.197。 (二) Nihongi Vol 1, p. 239, 脚注2、翻訳家W.G. Aston、Cosmo Classics, NY。[武内宿禰と武内朝臣は同人物でした。残念ながらその証拠を日本語の参照から見つけることが今のところ出来ません。]そして忍熊皇子もまた彼の歌の中で武内宿禰を武内朝臣と呼びました。(参照:日本書紀(上)p.198)その朝臣の発音は「あそ」または「あそん」と発音されました。「あそん」と「アロン」は共に類似しています。モルモン書に登場したアロンは記紀で登場した武内宿禰と同人物だったと考えられます。

    も一つの参照があります:モロナイ書9:17。(モルモンの息子モロナイに、モルモンはアロン王について手紙で伝えていました。)


19 この時期に九州に住んでいたモルモンは、同じく九州に住んでいたレーマン人(レーマンの子孫)そして本州に住んでいた大和人(日本人)を「レーマン人」と呼びました。大和人(日本人)は九州に住んでいたニーファイ人とレーマン人(リーハイの子孫)を熊襲と呼んでいました。(参照:歴史の証拠五) それらの事実はモルモン書と記紀の記録を比較することで証明することができます。


20 という意味はモルモンはニーファイ(綏靖天皇)の子孫として国王の家系を持っていました。(参照:証拠六.日本の紀元)


21 大和人(日本人)も参加していました可能性があります。多分モルモンの父がその戦争で亡くなりました。


22 彼は大きな戦闘の前に亡くなりました。


23 この大きな戦闘はモルモン書第6章、日本書紀(上)P.194ー199, 古事記P.272ー275で記録してあります。


24 モルモン書で記録されている大きな戦闘と、ここで挙げた記紀の中の戦闘が同一であったと物語る証拠が下記にあります。

一.その戦闘は深刻な戦いでした。両方ともに多数の兵士がいました。

二.一方の派閥は完全に滅びました。

三. 日本書紀は紀元後201年とあります。(年間差は200年の誤差がありますが、証拠一の注釈14の第四点を参照して下さい。この誤差は注釈14で説明した誤差の範囲内にあります。)

四.戦闘はそれぞれ同じ場所で起こりました。(琵琶湖地方)

五.最後にニーファイ人はこの大戦闘で完全に滅びました。ニーファイ人が熊襲であったという記紀の記録には信憑性があります。(参照:歴史の証拠五) 推理するとその熊襲は大戦闘で完全に滅びました。記紀は直接に熊襲がその戦闘で参加したと述べていませんが、記紀の中ではこの戦闘の前に熊襲の参照が沢山あります。しかしながらこの大きな戦闘後に熊襲の参照が見つけられません。ここで紹介している説明は熊襲がその戦争の間に滅びたということです。その時期に熊襲(ニーファイ人)の時代は終わりました。 つまり、同時期に発生した大戦闘で、モルモン書によるニーファイ人の惨敗と、記紀による熊襲の惨敗は一つの物語として説明することができます。


25 モルモンの軍隊の兵士の総数はこの時期どの程度だったか推理できますか? モルモン書6:1015によるとニーファイ人(モルモン)の軍隊は23師団から成っていました。そして、それぞれの師団は一万人の兵士から成っていました。つまり総計すると23万人の兵士から成り立っていたと結論できます。しかしながら、この数字を計算することは非常に困難なことです。この戦闘以前のモルモンの最大数の軍隊は四万二千兵から成っていました。しかしながらその時点で、多数の兵士が全滅しました。

    この大きな戦闘の時点では竹内宿禰の軍隊は数万人でした。(参照:日本書紀p.197) モルモンの軍隊は武内宿禰の運隊より小規模でした。(参照:モルモン書6:8)

    これらの記録の参照を照らし合わせると、モルモン書の記録されている軍隊の総数には誤まりがあると暗示できます。たぶん、一万人の兵士と記録された総数は、実際には千人の兵士から成っていた思われます。それを総数すると、モルモンの軍隊の総数は2万3千人から成っていると私は考えます。(考えるに、この軍隊の総数の誤りはモルモン書の翻訳時に誤りが、生じたと思われます。)


モルモン(ニーファイ人)と武内宿禰(レーマン人)の軍隊の比較

  時期            モルモンの軍隊    武内宿禰の軍隊      参照

紀元後322年        三万人             不明                モルモン書1:11

紀元後331年        四万二千人       四万四千人       モルモン書2:9

紀元後346年        三万人             五万人             モルモン書2:25

紀元後385年        二万三千人??    数万人             日本書紀p.197、モルモン書6:8(上記を見て)



26 預言者モルモンと熊之凝は同一人物の証拠があります。

モルモン書の記録:

    1.モルモンは軍隊の先頭で戦いました。(モルモン書6:11)

    2.以前の戦闘の開始直前にモルモンは応援歌を詠んだことがありました。

    (モルモン書2:23−24 )

    3.モルモンはニーファイ人であり、ニーファイ人は熊襲でした。 (参照:歴史の証拠五)

    4.モルモンがアロンと呼んだ王の名前。(参照:上記のモルモン書2:9とその補足)


日本書紀の記録:

    1.熊之凝は軍隊の先頭で戦いました。(日本書紀(上)宇治谷孟(訳)P.197)

    2.熊之凝の応援歌(日本書紀(上)宇治谷孟(訳)P.197)

    3.熊之凝の名から彼は熊襲であったと暗示しています。

    4.熊之凝は武内宿禰を「朝臣」と呼びました。 アロン王と朝臣は同一人物だったと思われます。

    (参照:上記のモルモン書2:9とその補足)




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