考古学の証拠二

ヤレド人と菜畑遺跡

 

時期:紀元前3100年から570年に至る


紹介
    ここでは太古時代に日本に住んでいたヤレド人という民について考古学の証拠を詳しく紹介しています。(モルモン書の中のエテル書にはヤレド人に関する記録が紹介されていますが、詳細には述べていません。)
    
参照
下記の参照はヤレド人の文化に関する情報を考古学から鑑みています。

⒈ ヤレド人は凡そ紀元前3100-2200年に渡って、そして紀元前590−570年まで日本に住んでいました。
「考古学の証拠一.年表」を参照してください。


⒉ ヤレド人は中東人の子孫でした4
   1  わたしモロナイは、この北の地の面で主の手によって滅ぼされた、昔のあの民について話をすることにする。
  2  わたしは、リムハイの民が発見した二十四枚の版から取ってわたしの記録とする。その版はエテル書と呼ばれている。
  3  その版の記録の最初の部分には、世界の創造とアダムが造られたこと、そのときから大塔に至るまでの話、それに大塔のときまでに人の子らの中に起こったことが載っているが、この部分はユダヤ人も持っていると思うので、 
  4  わたしは、アダムの時代から大搭のときまでに起こったそれらの事柄については書き記さない。それらの事柄はその版に載っているので、その版を見つける者は、すべての内容を手に入れる力を持つであろう。
  5  しかし見よ、わたしが記すのはすべての話ではない。塔のときから彼らが滅びるときまで、話の一部のみを記す。
  6  わたしが記す話は次のとおりである。この記録を書き記したのはエテルであって、コリアントルの子孫であった。
  33  ヤレドは彼の一人の兄弟と彼らの家族、および何人かのほかの人々と彼らの家族と一緒に、大塔のある所から出て来た。それは、主が民の言語を乱し、また激しく怒って民を地の全面に散らすと誓われたときのことである。そして、主の言葉のとおりに民は散らされた。
エテル書1:1ー6, 33


3.ヤレド人は主に関門海峡の近くに住んでいました。
  20  また、彼らは地峡のそばに、すなわち海によって陸が分けられている場所の近くに一つの大きな町を築いた。 
エテル書10:20

4.ヤレド人は南九州を猟場としていました。
  21  また、彼らは南方の地を、猟の獲物をとる荒れ野としてそのまま残しておいた。そして北方の地には、全面にわたって人々が住んでいた。
エテル書10:21

5. ヤレド人は農場主でした。
  25  また、彼らは地を耕すあらゆる道具を造り、すく道具、種をまく道具、刈り取る道具、脱穀する道具を造った。
エテル書10:25

6.ヤレド人時代の毒蛇のはびこること
  30  さて、地にひどい飢饉が起こり、その飢饉のためにその地に住む者たちが次から次へと死んでいった。地の面に雨が少しも降らなかったからである。
  31  また、地の面に毒蛇も現れ、多くの人がその毒で死んだ。そして、彼らの家畜の群れは毒蛇に追われて、ニーファイ人がゼラヘムラと呼んだ南方の地へ向かって逃げ始めた。
  32  そして、途中でその多くが死んだ。それでも、ある群れは南方の地へ逃げ込んだ。
  33  そこで主は蛇にそれ以上家畜の群れを追うのをやめさせ、人々が通り抜けられないようにその道をふさがせて、通り抜けようとする者が毒蛇のために倒れるようにされた。
  34  そして、民は家畜の逃げた道をたどり、途中で倒れた家畜の死体をむさぼり食い、一つも残さずに食い尽くした。そして民は今や自分たちの滅びるのが避けられないことを知ると、罪悪を悔い改めて主に叫び求め始めた。
  35  そして、彼らが主の前に十分にへりくだったので、主は地の面に雨を降らせられた。そこで民は再び力を取り戻し、また北の地方と周りのあらゆる地方で、実がとれ始めた。このようにして、主は民を飢饉から守ることによって彼らに御自分の力を示された。
エテル書9:30-35
7.ヤレド人は猟師でした。
  19  さて、リブも主の目から見て善いことを行った。また、リブの時代に毒蛇が全滅したので、人々は南方の地へ行き、狩りをして民の食糧を手に入れた。その地には森の動物が満ちていたからである。そして、リブ自身も卓越した狩人になった。
エテル書10:19

8. ヤレド人は人口密度の高い地区にすんでいました。
前のエテル書10:21

9. ヤレド人の時代の間に商売は繁盛していました。
  22  彼らは非常に勤勉であり、売買し、互いに交易して利益を得た。
エテル書10:22

10. ヤレド人は金属細工職人でした。
  23  また、彼らはあらゆるあらがねで物を造った。彼らは金や銀や鉄や真鍮、そのほかあらゆる金属を造った。彼らはあらがねを地の中から掘り出したので、金や銀や鉄や銅のあらがねを得るために大きな土の山が幾つもできた。そして彼らはあらゆる見事な細工を造った。
エテル書10:23

11.ヤレド人は絹布と亜麻布の服を持っていました。
  24  彼らは絹布とより糸で織った亜麻布を得ていた。また、裸を覆うためにあらゆる織物を作った。
エテル書10:24

12 ヤレド人は色々な家畜を飼うため道具を造りました。
   26  また、彼らは家畜に付けて働かせるためのあらゆる道具を造った。 
エテル書10:26

13 ヤレド人は剣を所有して色々な武器を造りました。
  27  そして、彼は自分の剣で父を殺して王位から退け、自分が代わって統治した。
エテル書9:27

  27  彼らはあらゆる武器を造った。また彼らは非常に入念な造りのあらゆる細工を造った。
エテル書10:27

14.ヤレド人は馬とろばそして象を飼っていました
  19  彼らは馬とろばも持ち、また象とクレーロムとクモムもいた。これらはすべて人のために役立ったが、特に象とクレーロムとクモムは役に立った。
エテル書9:19



説明5
ここでは初めの4項目だけについて述べています。後期の項目については他者に委ねたいと思います。

⒈ ヤレド人は凡そ紀元前3100-2200年に渡って、そして紀元前590−570年まで日本に住んでいました。
    彼らはモルモン書で記述されたように約束の地に最初に到着した集団でした。彼らは縄文の最後の時代に暮らしていました。「考古学の証拠一」では彼らの時代の年表が説明されています。

⒉ ヤレド人は中東人の子孫でした
    	ヤレド人はイスラエル人ではありませんでした。彼らはイスラエルの族長以前に存在していました。そして彼らは中東人でした。(「考古学の証拠一」)


3. ヤレド人は主に関門海峡の近くに住んでいました8。
バベルの塔から逃がれたヤレド人は、現在の日本の関門海峡(本州と九州に股がっている場所)のそばで繁栄しました。極端な北部を除いて、ヤレド人は九州に生息していませんでした。(参照:エテル書10:21)しかし、彼らは少なくとも現在の名古屋限り北に移動しました。(「地理の証拠十五.アブロムという地方」)


写真一.遺跡の復元竪穴住居(2013年1月5日)



写真二.復元竪穴住居の説明(2013年1月5日)

4.縄文時代からの菜畑遺跡はヤレド人の遺跡です。
    縄文の時代の菜畑遺跡はヤレド人の文化の時との場所に存在しまた。そこは縄文の晩期に見られる遺跡です。モルモン書で記録されているデソレションの地の中にヤレド人のその遺跡はあったと思われます。
    ヤレド人は、九州に居住していたニーファイ人やレーマン人と異なり、主に本州に居住していました。ヤレド人の文明は紀元前590−570年に絶滅しましたが、それでも幾人かの生在者が日本の拡大に伴い本州の北方の地(北海道)へと移動したと考えられます。
   ウイキペディアによると:「菜畑遺跡は、福岡市博多区にある板付遺跡と共に日本で最初に水稲耕作が行われた遺跡である。佐賀県唐津市の西南部、JR唐津駅から西に2キロメートルほどのところにあり、国の史跡に指定されている。」

5.ヤレド人は農場主でした。
    菜畑遺跡の水田はヤレド人が農場を営なんでいたことが裏付けられます。(参照:エテル書10:25)

写真三.遺跡の復元赤米水田(2013年1月5日)


写真四.縄文時代の復元水田(2013年1月5日)

            

6.アイヌと彼れらの蝦夷という先駆者は、ヤレド人の子孫です
    ヤレド人は中東人でした。(上記の二点)アイヌの特徴は、日本人の特徴とは違っています。彼らはより中東人に似ています。
    ヤレド人は、九州に居住していたニーファイ人やレーマン人と異なり、主に本州に居住していました。ヤレド人の文明は紀元前590−570年に絶滅しましたが、それでも幾人かの生在者が日本の拡大に伴い本州の北方の地(北海道)へと移動したと考えられます。その北海道で彼らは独自の文化を保って暮らし続けていたと思われます。アイヌは日本書記に見られる蝦夷(エゾ)と言う民の子孫であると思われます。  日本書紀によると蝦夷は本州に住んでいましたが、ヤレド人のように九州に住んでいませんでした。その時九州は熊襲(ニーファイ人とレーマン人)の本拠地でした。北海道の一部に今でも独自の文化を保っているアイヌ人は、ヤレド人の子孫だと推測されます。

写真五. アイヌ(1902年7)



7. ヤレド人は南九州を猟場としていました。
エテル書10:21によるとヤレド人は南九州には居住していませんでした。しかし狩猟
に最適な地域であったため、猟場としてその地を利用していました。ヤレド人時代には南九州地方は人口希薄な地域であったと思われます。そのためにヤレド人の遺跡をこの地方から発見することは非常に困難を要すると思われます。考古学者はこのことを将来、確認することが出来るはずです。

8.ヤレド人時代の毒蛇のはびこること
 
   また、地の面に毒蛇も現れ、多くの人がその毒で死んだ。そして、彼らの家畜の群れは毒蛇に追われて、ニーファイ人がゼラヘムラと呼んだ南方の地へ向かって逃げ始めた。
エテル書9:31
 

   この一節は、ヤレド人が北部九州を占めていた以前の結論と一致しています。どうやら北部九州地方には毒蛇のはびこることがあったと思われます。。群れは南の筑紫平野(つくしへいや)に逃げました。多分、マムシはエテル書9:30−35からの古代の物語の起源でした。

写真六 ニホンマムシ




結び
    菜畑遺跡はヤレド人の遺跡です。アイヌはヤレド人の子孫です。

4 ニーファイ人の最後のモロナイという預言者はヤレド人についてこの記録を残しました。

5 これらの説明はそれぞれの上記参照に相当しています。

6蝦夷(えみし、えびす、えぞ)は、日本列島の東方、北方に住み、畿内の大和朝廷によって異族視されていた人々に対する呼称である。時代によりその範囲が変化している。近世の蝦夷(えぞ)はアイヌ人を指す。」

(参照:http://ja.wikipedia.org/wiki/蝦夷)

7 写真はウィキペディアからです。(参照:http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:AinuGroup.JPG)

8 参照:エテル書10:20、「地理の証拠二十四.デソレション(不毛)の地」