考古学の証拠一
年表
時期:紀元前約3100年から紀元後約421年に至る
紹介
第一番目の証拠はモルモン書の歴史の年表と日本の考古学の年表を比較しています。(記紀の年表も参照のために与えられています。)下記は「表一」を説明しています。
参照
20 そしてモーサヤの時代に、文字の刻まれている一つの大きな石が彼のもとに運ばれてきた。それで彼は、神の賜物と力によって、刻まれていたものを解読した。
21 それには、コリアンタマーという人物と、彼の民の中の殺された者たちの話が載っていた。このコリアンタマーはゼラヘムラの民によって発見され、九か月の間彼らとともに暮らしたのであった。
22 また、コリアンタマーの先祖についても少し述べられていた。彼の最初の先祖は、主が人々の言葉を乱されたときに、塔のある所から出て来たのである。そして、主の公正な裁きによって彼の民に主の厳しい罰が下り、現在、北方の地に彼らの骨が散り散りになっている。
オムナイ書1:20−22
30 バウンティフルの地は、ニーファイ人がデソレションと名付けた地に接していた。そのデソレションの地ははるか北方にあって、かつて人々が住んでいたが今はもう滅びてしまい、前に述べたようにゼラヘムラの民がその人々の骨を発見した地である。またそこは、ゼラヘムラの民が最初に上陸した所でもある。
アルマ書22:30
10 ところで、南の地はリーハイと呼ばれ、北の地はゼデキヤの息子にちなんでミュレクと呼ばれた。主がミュレクを北の地へ導き、リーハイを南の地へ導いてこられたからである。
ヒラマン書6:10
33 ヤレドは彼の一人の兄弟と彼らの家族、および何人かのほかの人々と彼らの家族と一緒に、大塔のある所から出て来た。それは、主が民の言語を乱し、また激しく怒って民を地の全面に散らすと誓われたときのことである。そして、主の言葉のとおりに民は散らされた。
エテル書1:33
1 さて、エテルとコリアンタマーは同時代の人である。このコリアンタマーは、全地を治める王であった。
エテル書12:1
表一.モルモン書、考古学、そして記紀の年表
2 一.The Years of the Jaredites, John L. Sorenson, BYU Today, September 1968, pp. 18—24 (http://maxwellinstitute.byu.edu/publications/transcripts/?id=28)。この参照の中で記録されているユダヤ人の王ゼデキアの王国の滅亡とエルサレムが陥落した日付には誤りが見られます。実際の日付は紀元前586年です。参照で紹介している日付は紀元前556年ですので、これは誤りです。ウィキペディアでその日付の確認を参照してください(http://ja.wikipedia.org/wiki/ゼデキヤ_(ユダ王)
二. Book of Mormon Timeline, The Ensign of the Church of Jesus Christ of Latter-Day Saints, October 2011, pp. 20-21。(http://www.lds.org/ensign/2011/10/book-of-mormon-time-line?lang=eng)
3 この場所は関門海峡のすぐ北の地であったと思われます。(参照:ヒラマン書6:10)
下記の節の数字は表一の縦の列の数字に該当します。
(1) ヤレド人時代の年表
ヤレド人時代の年表はすでに前者によって推計されまていした2。ヤレド人はバイブルに見られるバベルの塔の出来事後に神の導きによって約束の地(日本)へ逃れました。 (参照:エテル書1:33、http://ja.wikipedia.org/wiki/バベルの塔)その出来事は中東で起こりました。(バイブルの学者たちはこの出来事の時期をすでに推計していました。) 上記の表一では紀元前3100年−2200年の時期はバベルの塔の出来事から推計されました。ヤレド人の文明は九州と本州に跨がる関門海峡から本州の名古屋に至るまで栄えました。
ヤレド人の文明が既に全滅していた事を知ったミュレク人は生存していた一人のヤレド人を発見しました。その生存者の名前はコリアンタマーと言い、ヤレド人の最後の王でした。( 参照:オムナイ書20−22, エテル書12:1 )ミュレク人は凡そ紀元前580−570年にデソレション(不毛)の地に到着しました。そこで彼等はヤレド人の破壊した文明の遺跡を発見しました3。 (アルマ書22:30 )これらを総計するとヤレド人の文明は凡そ紀元前590−570年に全滅したと想定できます。
(2) ニーファイ人時代の年表
モルモン書の中にはニーファイ人の重要な出来事の日付を多く取り上げています。その日付はニーファイ人によって記録されていました。彼等が記録した最初の日付と最後の日付は「第三部:歴史の証拠一」の年表で詳しく述べられています。
現在の暦とニーファイ人の暦を比較してさらに鑑みると、イエス・キリストの誕生の実際の日付を知ることが必要です。多くの歴史学者はイエス・キリストの誕生を紀元前7年から2年と推測しています。しかしながら、この研究の中ではイエス・キリストの誕生が紀元一年であった伝統的な日付を使用します。
この想定では、ニーファイ人の年間の日付の累計は、恐らく現在の暦と等しい365日だったのではと推理します。
(3) 縄文時代の年表
この時代の日付は「http://ja.wikipedia.org/wiki/縄文時代」で見つけられます。
(4) 弥生時代の年表
この表の時期は凡そです。この年表の記録は旧来のものを使用していますので、現在の年表とは異なります。下記の参照でさらに説明しています。
(参照:http://ja.wikipedia.org/wiki/弥生時代)
(5) 天皇時代の年表
天皇の系図は皇室のウェブサイト「http://www.kunaicho.go.jp/」で見つけられます。またウィキペディアでも見つけられます。 さらに「第三部.歴史の証拠一」ではニーファイ人と天皇の比較年表が詳しく見つけられます。
結び
一.ヤレド人の時代と縄文時代は中期から後期にほぼ同時期に起こりました。
二.ニーファイ人の時代と弥生時代はほぼ同時期に起こりました。