考古学の証拠三

ニーファイ人と吉野ヶ里遺跡

 


時期:紀元前580年から紀元後350年に至る   



紹介

ここでは太古の日本に移民していたニーファイの民に関する考古学の証拠を詳細に紹介しています。特に預言者モルモンの歴史と吉野ヶ里遺跡の歴史が一致していることを裏付ける証拠を紹介しています。


参照

下記の参照はニーファイ人の文化に関する情報を考古学から鑑みています。それらはニーファイ人についての考古学の研究に役立つと思います。



1.モルモン書と吉野ヶ里遺跡時代の日付を比較


「考古学の証拠一.年表」を参照してください。



  5  さて見よ、すでに三百二十年が過ぎ去り、ニーファイ人の中のひときわ悪い者たちは滅ぼされてしまった。

オムナイ書5

紀元前約二百七十九年



  12  ところで、このベニヤミン王のことであるが、彼の時代に民の中に多少の争いがあった。

  13  そして、レーマン人の軍隊がニーファイの地から下って来て、ベニヤミン王の民を攻めた。しかし見よ、ベニヤミン王は軍隊を召集して彼らに立ち向かった。彼はラバンの剣を持ち、自分自身の腕の力を振るって戦った。

  14  そして、ベニヤミン王の軍隊は主の力を頂いて敵と戦い、ついにレーマン人を何千人も殺した。彼らはレーマン人と戦って、自分たちの受け継ぎの地の全域からレーマン人を追い払ったのである。

  15  また、偽キリストが現れたが、彼らは口を閉ざされ、罪科に応じて罰せられた。

モルモンの言葉12−15



 4  そして、モーサヤが父に代わって統治を始めた。モーサヤが統治を始めたのは三十歳の年であり、リーハイがエルサレムを去ってからおよそ四百七十六年後のことになる。

  5  そしてベニヤミン王は、その後三年生き長らえて死んだ。

モサヤ書6:4−5

紀元前約百二十四年から百二十一年に至る



  28  第三百四十九年が過ぎ去った。第三百五十年に、わたしたちはレーマン人およびガデアントンの強盗たちと条約を結び、その条約によって分割された受け継ぎの地を得た。

  29  レーマン人は北方の地を、南方の地に通じる地峡までわたしたちに譲り、わたしたちは南方の地をすべてレーマン人に譲った。

モルモン書2:28−29

紀元約三百五十年



2.要塞

  8  また彼は、ニーファイ人の軍隊を強化し、小さいとりで、すなわち身を隠す場所を幾つも築き、軍隊を囲む土手を造り、また軍隊を囲む石垣も築いて、ニーファイ人の方々の町と方々の地の境、まことに国の周囲一帯を囲った。

アルマ書48:1−8

紀元前約七十二年



  1  さて、第十九年の十一月十日に、レーマン人の軍隊がアモナイハの地に近づいて来るのが見えた。

  2  見よ、すでにその町は再建されており、モロナイは町の境の近くに軍隊を配備していた。そして彼らは、レーマン人の矢と石を避けるために、周囲に土を盛り上げておいた。レーマン人は石と矢で戦ったからである。

  3  見よ、わたしはアモナイハの町が再建されたと述べたが、町は一部分再建されたと言い直そう。レーマン人は、民の罪悪のためにその町がかつて滅ぼされたことがあるので、再びそこが容易に自分たちのえじきになるであろうと思ったのである。

  4  しかし見よ、彼らの期待は何と大きく外れたことか。ニーファイ人は自分たちの周囲に土手を築き上げており、それが非常に高かったので、レーマン人はニーファイ人に石を投げても矢を射ても効果を上げることができず、また入り口からでなければ彼らを攻めることができなかったのである。

  5  このとき、レーマン人の連隊長たちは、ニーファイ人が防御の場所を備えるに当たって知恵を働かせたことに非常に驚いた。

  6  レーマン人の指揮官たちは、自分たちの人数が非常に多かったので、これまでと同じように当然ニーファイ人を攻めることができると思っていた。また、レーマン人も盾と胸当てを装備し、さらに皮の衣、まことに裸を覆う非常に厚い衣を着ていた。

  7  このように装備を整えていたので、レーマン人は、自分たちの意のままに容易に同胞を打ち負かして、彼らに奴隷のくびきをかけることができる、そうでなければ彼らを殺し、虐殺できると思っていた。

  8  しかし見よ、まったく驚いたことに、ニーファイ人はこれまでリーハイの子孫の中にまったく知られていなかった方法で、レーマン人に対する備えをしていた。ニーファイ人はモロナイの指示に従って、レーマン人と戦う備えをしていたのである。

  9  そして、レーマン人、いやアマリキヤ人はニーファイ人の戦いの備え方に非常に驚いた。

アルマ書49:1−9

紀元前約七十二年



  13  彼らはモロナイがすでに国中のすべての町で防備を固めていたこと、すなわち防御のとりでを築いていたことを知らなかった。そのため、彼らは固い決意をもってノアの地へ進軍した。実に、彼らの連隊長たちは前に進み出て、その町の民を滅ぼすと誓ったのであった。

アルマ書49:13

紀元前約七十二年



  18  見よ、周囲に築き上げられた土手は高く、堀は深かったので、レーマン人は入り口による以外、ほかの道からニーファイ人の防御のとりでに入ることはできなかった。

  19  このように、ニーファイ人は入り口以外の所からとりでに入ろうとして登って来る者たちに、上から石を投げつけ、矢を射て全員を殺してしまおうと備えをしていた。

  20  また彼らは、ニーファイ人の中でも最も強い兵の一団を置いて、入り口からニーファイ人の防御地に入って来ようとするすべての者を、剣と石投げで打ち倒そうと待ち構えていた。このように彼らは、レーマン人に対して自衛する備えをしていた。

  21  さて、レーマン人の隊長たちは、それぞれの軍隊を入り口の前に率いて行き、ニーファイ人の防御地に入ろうとしてニーファイ人と戦い始めた。しかし見よ、彼らは何度も撃退され、おびただしい数の死者を出した。

  22  彼らはその通路でニーファイ人に勝てないことを知ると、次に、土手を掘り崩してニーファイ人の軍隊に近づく道を開き、対等に戦う機会を得ようとした。しかし見よ、その最中に彼らは石を投げつけられ、矢を射られて倒された。そのため、土手を掘り崩して堀を埋める代わりに、死者や負傷者の体で多少堀が埋められることになった。

アルマ書49:18−22

紀元前約七十二年



  1  さて、モロナイは戦争の準備をし、レーマン人から民を守る準備を整えるのをやめなかった。彼はさばきつかさの統治第二十年の初めに、軍隊に命じて、ニーファイ人が所有していた全地の至る所ですべての町の周囲に土を盛り上げて土塁を築く作業を開始させた。

  2  彼はまた、町を囲むこれらの土手の上に木材を、すなわち人の背丈ほどの高さの木材の建造物を築かせた。

  3  そして、町を囲むこれらの木材の建造物の上に、先端のとがった杭で柵を造らせた。この杭は丈夫で、丈が高かった。

  4  また彼は、この柵を見下ろすやぐらを建てさせ、そのやぐらの上に防御の場所を造らせて、レーマン人の石や矢がそこにいる人々に当たらないようにした。

  5  また、ニーファイ人の兵たちは自分たちの思うままに、また力の及ぶかぎり、そのやぐらの上から石を投げつけ、町の防壁に近づこうとする者を殺せるように備えをした。

 6  このように、モロナイは全地のすべての町の周囲にとりでを築いて、敵の来襲に備えた。

アルマ書50:1−5

紀元前約七十二年から六十七年に至る


 

  5  さて、テアンクムは、レーマン人がこれまでに奪い取ったそれらの町と、手に入れたそれらの土地を守り通そうと決意しているのを知り、また彼らの人数がおびただしいのを見て、とりでにこもっている彼らを攻撃しようとするのは得策ではないと思った。

  6  それでも彼は、戦う準備をしているかのように、兵をとりでの近くにとどめておいた。そして、実際はその間に方々に防壁を築き、身を隠す場所を用意して、レーマン人の来襲を防ぐ準備を進めていた。

アルマ書52:5-6

紀元前約六十六年から六十四年に至る



  3  さて、レーマン人は同胞の死体とニーファイ人の死体を葬り終えると、バウンティフルの地へ連れ戻された。それからテアンクムは、モロナイの命令によって彼らにその地、もっと正確に言えばその町、バウンティフルの町の周りに堀を築く作業を開始させた。

  4  またテアンクムは、彼らに堀の内土手の上に木材で胸壁を築かせ、さらにその胸壁に堀から上げた土を盛らせた。このようにニーファイ人はレーマン人を働かせて、ついにバウンティフルの町を木材と土から成る非常に高い丈夫な防壁で囲んだ。

  5  この町は、それ以来非常に堅固なとりでとなった。そして、彼らはこの町の中で、すなわち捕虜のレーマン人の手で築かせた防壁を持つこの町の中で、捕虜たちを見張ったのであった。レーマン人が働いている間は彼らを見張るのは容易であり、またレーマン人に攻撃を仕掛けるのに全軍が欲しかったので、モロナイはどうしてもレーマン人を働かせなければならなかった。

アルマ書53:3−5

紀元前約六十四年から六十三年に至る



  21  さて、彼らは、東の方の入り口のそばにおり、全員眠っていた。そこでモロナイは自分の軍へ引き返し、兵たちに急いで丈夫な縄とはしごを幾つも準備させた。城壁の上から内側に降ろすためであった。

  22  そしてモロナイは、兵を出して城壁の上に登らせ、レーマン人が軍隊を宿営させていない町の西の方に彼らを降ろした。

  23  そして彼らは皆、夜の間に丈夫な縄とはしごを使って町の中に降りたので、朝には、全員が町の城壁の内側に入っていた。

アルマ書62:21-23

紀元前約六十二年から五十七年に至る


3.金属、絹、麻

  29  さて、教会員は堅実であったので、非常に物持ちになり、自分たちが必要としたすべてのものを豊かに持つようになった。すなわち、大小の家畜の群れや、あらゆる若い肥えた家畜、それに穀物や金や銀や貴重な品々、また絹や、より糸で織った亜麻布、あらゆる丈夫で素朴な織物、これらのものを豊かに持つようになった。

アルマ書1:29

紀元前約九十年



4.文献

 13  ところで、この民の多くの者がこの民の行ってきたことを書き続けてたくさんの記録を残しており、その記録は詳細で非常に大部である。

  14  しかし見よ、この民が行ってきたことの百分の一も、本書に載せることができない。すなわち、レーマン人についての話とニーファイ人についての話、彼らの戦争と争いと不和、宣教と預言、海運と船の建造、神殿と会堂と聖堂の建設、義と悪、殺人と強盗と略奪、あらゆる忌まわしい行いとみだらな行い、これらについての話の百分の一も載せることはできない。

  15  しかし見よ、多くの書とあらゆる多くの記録がある。これらはおもにニーファイ人が書き記してきたものである。

  16  そして、ニーファイ人が戒めに背き、殺され、略奪され、狩り出され、追い出され、虐殺され、地の面に散らされ、レーマン人と交じってもはやニーファイ人と呼ばれなくなり、邪悪で野蛮で残忍になり、まことにレーマン人になってしまうまで、これらはニーファイ人によって代々伝えられてきた。

ヒラマン書3:13−16

紀元前約四十九年から三十九年に至る



2 しかしながら、版でないほかのものに書き記すことは、すべて朽ちて消え去ってしまうに違いない。しかし、わたしたちは子孫と愛する同胞に、わたしたちについて、すなわち彼らの先祖について少々知らせるために、版にわずかばかりの言葉を書き記すことができる。

ヤコブ書4:2

紀元前約五百四十四年から四百二十一年に至る



  14  現在のところ、レーマン人を真実の信仰に連れ戻そうとするわたしたちの努力は、むなしいものとなっている。彼らは激しい怒りをもって、何とかしてわたしたちの記録とわたしたち自身を、それにわたしたちの先祖のすべての言い伝えを絶やしてしまおうと誓っているのである。

エノス書、14節

紀元前約四百二十 年



  6  そして、わたしたちが民を全員一団としてクモラの地に集め終えたとき、見よ、わたしモルモンは老いが進んでいた。わたしは、これが自分の民の最後の戦闘であることを知っており、また、先祖から伝えられてきた神聖な記録をレーマン人の手に渡してはならないと主から命じられていたので(レーマン人はそれらの記録を損なうからである)、わたしはニーファイの版からこの記録を作り、主の手によってわたしに託されたすべての記録をクモラの丘に隠した。そして、このわずかな版だけを息子モロナイに渡す。

モルモン書6:6

紀元約三百八十五 年




他の文化の参照

5.

  7  集まった群衆が非常に大勢であったため、ベニヤミン王は神殿の中ですべての人を教えることができなかった。そこで彼は、自分の語る言葉を民が聞けるように、やぐらを建てさせた。

モーサヤ書2:7

紀元前約百二十四年



  12  そして彼は、神殿の近くに一つの塔、つまり非常に高い塔を建てた。それはきわめて高く、その上に立てば、シャイロムの地と、レーマン人の所有しているシェムロンの地と、付近一帯の地を見渡すことができた。

モーサヤ書11:12

紀元前約百六十年から百五十年に至る




  5  そして彼は王と戦った。王は彼に打ち負かされそうになったところで逃げ出し、走って神殿の近くにある塔に登ってしまった。

モーサヤ書19:5

紀元前約百四十五年から百二十一年に至る



36  そして彼は、ニーファイ人が所有していた全地にあるすべての塔の上に自由の旗を掲げさせた。モロナイはこのようにニーファイ人の中に自由の旗を掲げさせた。

モーサヤ書46:36

紀元前約七十三年から七十二年に至る



  1  さて、アマリキヤは王位を得るやいなや、ニーファイの民に反感を抱くようにレーマン人の心をあおり始めた。彼は幾人かの者たちを任じて、方々の塔からレーマン人に向かってニーファイ人の悪口を言わせた。

モーサヤ書48:1

紀元前約七十二年




  20  また、残りの離反者たちは、剣によって地に打ち倒されるよりも自由の旗に従うことを選んだ。そして、仕方なく自分たちのやぐらと自分たちの町に自由の旗を掲げ、また国を守るために武器を取った。

アルマ書51:20

紀元前約六十七年から六十六年に至る




  10  さて見よ、それは、ニーファイの庭にある塔の上で叫んだことであった。彼の庭はゼラヘムラの町にある最も大きな市場へ通じている大通りのそばにあった。そしてニーファイは、自分の庭にあるその塔の上でひれ伏していた。その塔も大通りに出る庭の門の近くにあった。

ヒラマン書7:10

紀元前約二十三年から二十一年に至る



  7  さて、わたしはこの民の被っている苦難について少し書こう。わたしがアモーロンから受けた知らせによれば、見よ、レーマン人にはシェライザの塔から連れ去った多くの捕虜がいるとのことである。捕虜は、男もいれば女もおり、子供もいた。

   モロナイ書9:7

紀元四百一年から四百二十一年に至る


6.狩猟

  3  見よ、わたしは森で獣を狩ろうとして出かけた。かつてわたしは、父が永遠の命と聖徒たちの喜びについて語るのを度々聞いていたのだが、その父の言葉が、そのときになってわたしの心に深くしみ込んできた。

エノス書第三節

紀元前約四百二十年



7.農業

  9  また、わたしたちは地を耕し、あらゆる種、すなわち、とうもろこしや小麦、大麦の種、またニアスや、シウム、それにすべての種類の果物の種をまき始めた。こうしてわたしたちはこの地で増え、栄え始めた。

モーサヤ書9:9

紀元前約二百年から百八十七年に至る

 


8.農業、畜産

14  ニーファイの地でのわたしの治世の第十三年に、民がシャイロムの地のはるか南で家畜の群れに水を飲ませ、草をはませ、また地を耕していたとき、レーマン人の大軍が襲いかかって彼らを殺し始め、家畜の群れと畑のとうもろこしを奪い始めた。

モーサヤ書9:14

紀元前約二百年から百八十七年に至る




9.金属、道具

  8  わたしたちは非常に増えて、地の面に広がり、金や銀や貴重な

品々、見事な造りの木工品や建物や機械、それに鉄や銅、真鍮、鋼などを豊かに持つようになった。そして、地を耕すためにあらゆる道具を造り、また戦争の武器、まことに、鋭いやじりの矢と矢筒、投げ矢と投げ槍を造り、さらに戦争のためにすべての準備を整えた。

ジェロム書第八節

紀元前約三百九十九年から三百六十一年に至る



10.武器

  16  そこでわたしは、弓と矢、剣、三日月刀、こん棒、石投げ、そのほか考えつくかぎりのあらゆる武器で彼らを武装させた。そして、わたしと民はレーマン人と戦うために出陣した。

モーサヤ書9:16

紀元前約二百年から百八十七年に至る




11.野生動物

  25  そしてわたしたちは、荒れ野の中を旅したとき、この約束の地には森の中にあらゆる獣、すなわち雌牛と雄牛、またろばと馬、やぎと野やぎ、そのほか人の役に立つあらゆる獣がいるのを知った。またわたしたちは、金や銀や銅など、あらゆるあらがねも見つけた。

ニーファイ第一書18:25

紀元前約五百九十一年から五百八十九年に至る




12.馬車

  22  さて、第十七年の末に、ラコーニアスの布告が地の面の至る所に出された。そして民は、自分たちの馬と馬車、家畜、すべての大小の家畜の群れ、穀物、そのほかすべての持ち物を携えて、何千人となく、何万人となく進んで行き、彼らは皆、敵を防ぐために集まるように指定された所へ向かった。

第三ニーファイ、ニーファイの書3:22

紀元前約十六年から十八年に至る




13.船

  10  そして、北方の地には材木が非常に乏しかったので、南方の地の人々は船で多くの材木を送った。

ヒラマン書3:10

紀元前約四十九年から三十九年に至る




14.多様

  14  しかし見よ、この民が行ってきたことの百分の一も、本書に載せることができない。すなわち、レーマン人についての話とニーファイ人についての話、彼らの戦争と争いと不和、宣教と預言、海運と船の建造、神殿と会堂と聖堂の建設、義と悪、殺人と強盗と略奪、あらゆる忌まわしい行いとみだらな行い、これらについての話の百分の一も載せることはできない。

ヒラマン書3:14

紀元前約四十九年から三十九年に至る




 15.セメントの工事

6  その地はどこも樹木のほかは少しも荒れていなかった。しかし、前にその地に住んでいた​人々の滅亡がひどかったので、​荒れ果てた地と呼ばれた。

7  その地の面には樹木がほとんどなかったので、そこへやって来た人々はセメントの工事が非常に上手になった。そこで彼らは、セメント造りの家を建てて住んだ。

ヒラマン書3:6−7

紀元前約四十九年から三十九年に至る


(注目:上記の一節は少々理解し難い部分です。「にその​にんでいた​の​」はヤレド人についての参照だと思います。その滅亡は約紀元前600年でした。一節6−7は紀元前49−39年の時期を説明しています。そして木々は再び成長して行ったでしょう。)




16.住居

  9  北方の地にいた人々は天幕やセメント造りの家に住んでいた。そして彼らは、その地の面に生える木はどんなものでも育てるようにして、将来材木を得て自分たちの家を建てられるように、まことに自分たちの町を築き、自分たちの神殿や会堂、聖堂、そのほかあらゆる建物を建てられるようにした。

ヒラマン書3:9

紀元前約四十九年から三十九年に至る



17.多数の町

  11  このようにして、彼らは北方の地の人々が、多くの町を木とセメントの両方で建設できるようにした。

ヒラマン書3:11

紀元前約四十九年から三十九年に至る



18.貨幣制度

  4  さて、ニーファイ人の各種の金貨と銀貨の名称は、その価値に従って挙げると次のとおりである。この名称はニーファイ人が付けたものである。彼らはエルサレムにいたユダヤ人の方法では計算していなかった。また、ユダヤ人の方法で量ることもしなかった。彼らはモーサヤ王が確立したさばきつかさの治世に至るまで、民の意向と状況に応じて、時代ごとに貨幣単位と度量法を変えてきたのである。

  5  さて、その貨幣単位は次のとおりである。すなわち、金一セナイン、金一セオン、金一シュム、金一リムナ。

  6  銀一セヌム、銀一アムノル、銀一エズロム、銀一オンタイがあり、

  7  銀一セヌムは金一セナインに等しく、どちらも大麦一升、または各種の穀物一升分に相当した。

  8  さて、金一セオンの額はセナインの二倍の価値があり、

  9  また、金一シュムはセオンの二倍の価値があり、

  10  また、金一リムナは、一セナインと一セオンと一シュムを合わせた価値があった。

  11  また、銀一アムノルは二セヌムに等しく、

  12  また、銀一エズロムは四セヌムに等しく、

  13  また、銀一オンタイは、一セヌムと一アムノルと一エズロムを合わせたものに等しかった。

  14  さて、貨幣単位の小さいものの価値は次のとおりである。

  15  一シブロンは一セヌムの半分である。したがって、一シブロンは大麦半升分に相当する。

  16  また、一シブルムは一シブロンの半分であり、

  17  そして、一レアは一シブルムの半分である。

  18  さて、これがニーファイ人の貨幣評価による数の取り方である。

  19  また、金一アンテオンは三シブロンに等しい。

アルマ書11:4−19

紀元前約八十二年



説明

ここでは幾つかの点だけを論じることができます。他の項目については他者に委ねたいと思います。


1.モルモン書と吉野ヶ里遺跡時代の日付を比較

    吉野ヶ里のウェブサイトによると吉野ヶ里に住んでいた弥生時代の人々の時期は紀元前300年から紀元後300年に渡っていた。 モルモン書に見られるミュレク人は凡そ紀元前580年−570年の後に筑紫平野の地方に居住していました。10 彼等は吉野ヶ里の最初の居住者と思われます。一方、ニーファイ人は凡そ紀元前225年に南九州から筑紫平野に移民しました。11 その後ミュレク人とニーファイ人は同族として生活を共にしていました。その後吉野ヶ里はニーファイ人が占拠しましたと思われます。しかしながら、紀元後350年にはレーマン人との大戦に敗れたニーファイ人は、ついに、九州から追い出されてしまいました。(参照: モルモン書2:28ー29)この出来事はその時期の吉野ヶ里が遺棄されたことを説明しています。



2.ニーファイ人と弥生人の砦

しかし見よ、まったく驚いたことに、ニーファイ人はこれまでリーハイの子孫の中にまったく知られていなかった方法で、レーマン人に対する備えをしていた。ニーファイ人はモロナイの指示に従って、レーマン人と戦う備えをしていたのである。

アルマ書49:8

紀元前約七十二年


上記の一節はニーファイ人の砦の初期からの建設の日付を取り上げています。それは紀元前約72年でした。その時期にはニーファイ人の文明が最大に発展していた時期と思われます。ですからその時期以前にはこれと同じ砦の建設を発見することは不可能と思われます。

ここで私はニーファイ人と弥生人(吉野ヶ里遺跡)の砦を比較しています。写真五を参照して下さい。その中にある説明は預言者モルモンがニーファイ人の砦を描写しています。それらの説明は紀元前約72年から67年の時期に至っています。考古学者によると吉野ヶ里は弥生時代の遺跡と説明しています。(参照:地理の証拠:地図四:ニーファイ人の町) 預言者モルモンはこれらの塔12、町の周囲にある堀、土塁、そして杭を利用した柵の特徴を正確に描写しています。この弥生時代に建設された下記の吉野ヶ里遺跡の砦の写真は、モルモンの説明を付け加えたものです。


写真六.復元された土塁(2013年1月5日)





写真七.杭を利用して復元された柵(2013年1月5日)



写真八.復元されたやぐら(2013年1月5日)




写真九.復元された防御の場所(2013年1月5日)



写真十.復元された堀(2013年1月5日)


モルモンはニーファイ人の町の入り口を描写しました。この弥生時代に建設された吉野ヶ里遺跡の村はモルモンの説明を付け加えたものです。


写真十一.復元された入り口(2013年1月5日)


下記の写真は吉野ヶ里遺跡の全景です。


写真十二.吉野ヶ里遺跡の全景13


3.絹、麻

また絹や、より糸で織った亜麻布、あらゆる丈夫で素朴な織物、これらのものを豊かに持つようになった。

アルマ書1:29

紀元前約九十年


モルモンはニーファイ人が絹と亜麻布を持っていたと記録しました。それは紀元前約92年でした。吉野ヶ里のウェブサイトでは、「吉野ヶ里遺跡では、甕棺の中から麻や絹の布片が見つかっています。」14と。



4.文献

ニーファイ人は多くの記録を残しました。(参照:ヒラマン書3:13−16)にも関わらず、日本の考古学者はニーファイ人の記録を発見することに困難を要しています。そこには二つの理由を挙げることができます。


1.レーマン人はニーファイ人の記録を損ないました。(参照:エノス書14節、モルモン書6:6)

2.ニーファイ人の記録の資料は一時的でした。(参照:ヤコブ書4:2)



5.衣服

モルモン書のニーファイ人

24ところが、この第二百一年には、高価な衣服を着て、あらゆる見事な真珠と世の美しいものを身に着けるなどして、高慢になった者たちが彼れらの中に現れ始じめた。

第四ニーファイ、ニーファイの書、節24

紀元後約二百二年


吉野ヶ里の弥生

「魏志倭人伝には、男は布を身体に巻き付けただけ(横幅衣)、女は布の真ん中に穴をあけ、すっぽりと首からかぶったもの(貫頭衣)を着ていると書かれています。吉野ヶ里遺跡では、甕棺の中から麻や絹の布片が見つかっています。当時は、身分によって服の素材や形が違っていたようです。」

    

          

上層の衣装                                           一般の衣装

http://www.yoshinogari.jp/contents3/?categoryId=39


説明

魏志倭人伝にによると、当時の人々の服装は上層部の人々一般の人々の服装に分けられています。モルモン書によると、ニーファイ人も同様に服装が上層部と一般に分けられていたと記録しています。



6.鉄

モルモン書のニーファイ人

8そしてノア王は、風雅がで広々とした建物のをたくさん建て、それらの建物のを見事な木細工と、金や銀、また鉄や真鍮やジフや銅などのあらゆる貴重な品から造くった見事な細工で飾った。

モーサヤ書11:8

紀元前約百六十年から百五十年に至る



吉野ヶ里の弥生

「吉野ヶ里遺跡からは鋳造した跡や鋳型・坩堝・鎌・鍬などの農具や、斧・やりがんな・刀子等の工具が見つかっています。また高純度の錫片が出土したことから 青銅を調合する技術もあった可能性は高く、吉野ヶ里出土の鉄製品は、朝鮮半島や中国からの鉄板を加熱加工したものであることが分かっています。

弥生時代になると、鉄や青銅といった金属器も伝わり、人々の作業能力は飛躍的に向上しました。ある研究の成果では、鉄の斧と石の斧とでは、その能力に4倍の差があるといわれています。鉄の斧を使い始めたことによって人々はさらに農業やその他の生産を発展させていったのでしょう。鉄の製品は農具や工具、武器 などの実用品として、また青銅の製品は、初めのころは実用品として、その後は主に祭りの道具や権威を表すシンボル的なものとして使われるようになったと考えられています。」と言いました。




鉄製品

http://www.yoshinogari.jp/contents3/?categoryId=41


説明

モルモンはニーファイ人が鉄を使っていたと記録しています。それは吉野ヶ里の時代の間でした。弥生人も鉄を持っていました。



7.

モルモン書のニーファイ人

上記の参照モーサヤ書11:8を見てください。



吉野ヶ里の弥生

上記のhttp://www.yoshinogari.jp/contents3/?categoryId=41からの参照を見てください。


説明

青銅は銅から製造されます。従って弥生人も、銅を用いていました。そしてニーファイ人も銅を製造した。



8.金

モルモン書のニーファイ人

  4  さて、ニーファイ人の各種の金貨と銀貨の名称は、その価値に従って挙げると次のとおりである。この名称はニーファイ人が付けたものである。。。。

5  さて、その貨幣単位は次のとおりである。すなわち、金一セナイン、金一セオン、金一シュム、金一リムナ。

アルマ書11:4、5

紀元前約八十二年


説明

ニーファイ人は金を使っていました。しかしながら私が知る限りでは、吉野ヶ里遺跡から金が発見されたという歴史の証拠が見当たりません。一方で魏志倭人伝(中国の三国時代の魏に関する歴史書の部分)によると紀元238年(弥生の時代)に魏志王は倭国の邪馬壹女王に8のテール(中国の重量および銀貨の単位)の金を提示したという記録があります。

https://en.wikipedia.org/wiki/Yamatai

 



9.武器

モルモン書のニーファイ人

12 ニーファイ人はアムリサイ人の意図を知って、彼らと戦いを交える用意をした。まことに、彼らは剣と三日月刀、弓と矢、また石と石投げ、そのほかあらゆる武器で武装した。

アルマ書2:12

紀元前約八十七年



吉野ヶ里の弥

  

青銅製の戈                                                 有柄銅剣

http://www.yoshinogari.jp/contents3/?categoryId=4

http://www.yoshinogari.jp/contents3/?categoryId=25


「中国からのブロンズミラー、和風青銅鏡、青銅の短剣、コイン、ベル、そして鉾、鉄の道具、木製の道具、先史時代の人間の毛髪、および他の多くの貴重な成果物は、吉野ヶ里特徴から発掘されています。」


「Bronze mirrors from China, Japanese-style bronze mirrors, bronze daggers, coins, bells, and halberds, iron tools, wooden tools, prehistoric human hair, and many other precious artifacts have been unearthed from Yoshinogari features.」

http://en.wikipedia.org/wiki/Yoshinogari_site



説明

上記のモルモン書と吉野ヶ里遺跡についての参照を比べると、双方共に武器を持っていたことが証明されます。



10.農具


吉野ヶ里の木製の道具の事例


モルモン書のニーファイ人

  8  わたしたちは非常に増えて、地の面に広がり、金や銀や貴重な

品々、見事な造りの木工品や建物や機械、それに鉄や銅、真鍮、鋼などを豊かに持つようになった。そして、地を耕すためにあらゆる道具を造り、また戦争の武器、まことに、鋭いやじりの矢と矢筒、投げ矢と投げ槍を造り、さらに戦争のためにすべての準備を整えた。

ジェロム書第八節



吉野ヶ里の弥生

「吉野ヶ里遺跡からは鋳造した跡や鋳型・坩堝・鎌・鍬などの農具や、斧・やりがんな・刀子等の工具が見つかっています。」

http://www.yoshinogari.jp/contents3/?categoryId=41



木製の農具

http://www.yoshinogari.jp/contents3/?categoryId=24


「南のムラでは農閑期の冬を中心に、生活に必要な様々な道具が作られていました。農作業に必要な道具類をはじめ、食事に使う土器などの食器・調理具、また刃物などの工具類、衣服や敷物、縄や紐、こういった生活に必要な様々なものを農閑期を中心に製作していました。「大人」たちはこういった日常の労働は行わないので、当然、「大人」が使うものも作らなくてはいけませんでした。」http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c813.html



説明

上記のモルモン書と吉野ヶ里遺跡についての参照を比べると、私達は幾つかの類似点を見つけられます。それらは、農作業に必要な道具類です。



11.文献

モルモン書のニーファイ人

2そして、わたしモルモンは、レーマン人の王に手紙を書いて、クモラと呼よばれる丘に近かいクモラの地に民を集め、そこでレーマン人と戦えるようにするのを認めてほしいと頼のんだ。

モルモン書6:2



吉野ヶ里の弥生

「文字については、現在まではっきりとしたものは確認されていません。また言葉についてもほとんど分かっていません。ただ魏志倭人伝には、魏の国との交渉・ 交流において、「文章を交わした」「通訳がいる」などの記述があることから、文字や言葉も存在していたということだけは間違いないようです。なお、当時は 同じ日本の中でも言葉が通じない地域があり、現在の日本語のように全国共通のものではなかったようです。」

http://www.yoshinogari.jp/contents3/?categoryId=39



説明

ニーファイ人は多くの記録を残しました。(参照:ヒラマン書3:13-16)にも関わらず、日本の考古学者はニーファイ人の記録を発見することに困難を要しています。そこには二つの理由を挙げることができます。


1.レーマン人はニーファイ人の記録を損ないました。(参照:エノス書14節、モルモン書6:6)

2.ニーファイ人の記録の資料は一時的でした。(参照:ヤコブ書4:2)

注.魏志倭人伝によると、その当時日本と中国の間で往復書簡を交わしたという事実があります。さらに通訳も存在していたという事実も証明しています。



結び

吉野ヶ里遺跡はニーファイ人の遺跡です。それは恐らく、ニーファイ人のミレクの地の首都でした。(参照:地理の証拠三十二一)

 

参照:http://www.yoshinogari.jp/contents3/?categoryId=2

10 参照:「https://www.lds.org/ensign/2011/10/book-of-mormon-time-line?lang=eng

11 参照:オムナイ書1215。注釈:モルモン書はこの事件の日付を取り上げていませんので、確実な日付を想定するのは困難です。しかしながら確実に言えるのは事件前の紀元前280年(参照:オムナイ書5)の日付と事件後の紀元前124年(参照:モサヤ書6:4)の日付については確実な日付と裏付けが出来ます。

12 塔は防御以外に宗教的祭典とその他の理由のために建設されたとモルモン書で記録されています。

13 写真はウィキペディアからです。(http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル: Yoshinogari_Ancient_Ruins_2008.jpg)

14 参照:http://www.yoshinogari.jp/contents3/?categoryId=