考古学の証拠

紹介

 

絵:吉野ヶ里


モルモン書は日本へ移民した3部族について述べています。これらの三つの集団のうち最初に日本に到着したのはヤレド人でした。そして預言者リーハイと彼の家族が後に続き、最後にミュレク人が到着しました。

最初に到着したヤレド人は紀元前約3100−2200年そして紀元前約580年までに日本で暮らしていました。私はその時代をヤレド人時代と呼びます。

預言者リーハイと彼の家族は紀元前約600年にエルサレムを去った後に、紀元前約590年に日本の約束の地(九州)に到着した後、その地で暮らしていました。(彼の子孫はニーファイ人とレーマン人にそれぞれ別れました。そして彼等の歴史はニーファイ人によって記録されました。)

リーハイの亡き後、彼の子孫であるニーファイ人が約束の地である九州で勢力を発揮しました。その後、民族間で勃発した戦争で紀元後約385年に滅亡しました。その時代(紀元前約590年から紀元後約385年に至って)をニーファイ人時代と呼びます。それと同時にレーマン人の歴史も含んでいます。

紀元前凡そ580−570年に最後のミュレク人が約束の地へ辿り着きました。彼等はエルサレムが滅亡する直前にそのエルサレムから脱出して約束の地へ向かいました。モルモン書によるとミュレクはユダヤ人の王ゼデキヤの息子でした。彼と彼の民は紀元前約588年にエルサレムを去って神の導きによって約束の地(日本)へ逃れました。彼は北方の地(本州)に到着しました。

ミュレク人1とニーファイ人は凡そ同じ時期に日本に暮らしました。そしてニーファイ人は凡そ紀元前225年にミュレク人のザラヘムラの町(現在の九州の筑紫平野の中で)で合体しました。 以上の理由からミュレク人の歴史はニーファイ人の歴史に含まれています。

    「証拠一」の中でヤレド人時代とニーファイ人時代の年表と日本の考古学の年表を比較しています。 比較するために記紀の年表も挙げています。これを天皇時代と呼びます。

    「証拠二」の中では北西九州の佐賀県の唐津市にある菜畑遺跡がヤレド人の古い遺跡であった証拠を挙げています。

    「証拠三」の中では九州にある吉野ケ里遺跡がニーファイ人の古い町であった象徴的な証拠を挙げています。

    この第二巻の中では日本の考古学で見つかったモルモン書の歴史を裏付ける証拠を論じています。

私は考古学の専門家ではありませんのでさらの研究は他者に委ねます。しかしながら下記に述べている多くのモルモン書の文化に関しての参照と概要はさらなる研究を掘り下げて提供しています。


1 参照:「地理の証拠二十四.デソレソン(不毛)の地」、「地理の証拠三十二.ニーファイ人のゼラヘムラという首都」