第三項

モルモン書の町の地名

 

紹介

  7  さて、ニーファイの民の地や町や村は、小さい村であってもすべて、最初にそこを所有した人の名を付けるというのが彼らの習わしであった。アモナイハの地についても同様であった。

 アルマ書8:7

紀元前約八十二年


    この項では数多くのモルモン書で記録されているニーファイ人が住んでいた町名を日本の地図に付け加えることができます。 この地名は「地図四.ニーファイ人の町」という地図で表されます。周辺の町の名は殆どが同じ名前で呼ばれています。 しかしながらモルモン書では詳細に述べられていませんので、残念ながら推測の域を越えられません。千六百年以上も太古のことを述べていますので、その時点から現在に至るまでの日本の地理は、当然ながら想像をはるかに越えて変化が生じていることでしょう。

    ちなみにモルモン書の中では幾多の町が記述されていますが、その多くの場所の名を日本の地図で発見するのは容易なことではありません。特にレーマン人が住んでいた町の所在地については、筑紫平野の南であったという限られた情報しかありません。モルモン書を書き残したのはニーファイ人であったので彼等はレーマン人の歴史については多くを述べていません。

    幸いなことに、これらの町の所在地は私が研究している中で、モルモン書で記載されている地理の位置と現在の日本の地理の位置には、それほどの隔たりがないと考えられます。



地図四.ニーファイ人の町

吉野ヶ里遺跡27 以外のこれらの町の地図の地名は全てモルモン書から成っています。さらにデソレションの町とテアンクムの町を除いた町の情報は凡そ紀元前七十年の時期に記載されました。デソレションとテアンクムという町の地名は凡そ紀元前三百六十年に預言者モルモンによって最初に記載されました。

モルモン書に出て来る人々は常に敵対関係にあり争っていました。特にニーファイ人とレーマン人は常に憎み合い争っていました。さらにお互いの領土を拡大に確保するために境界線の位置が争いの中で変化していきました。

    現在の九州の中で特に重要な吉野ヶ里という弥生遺跡はニーファイ人の町であったと推測しています。

27 吉野ケ里遺跡はニーファイ人の町であったと思われます。(参照:考古学の証拠三)それはミレクの地の地方にありました。(参照:地理の証拠三十一)