地理の証拠三十五

ニーファイの地と球磨郡

 

参照

5  さて、主はわたしニーファイに、彼らのもとを去って荒れ野へ逃げるように、またわたしとともに行きたい者も皆、そうするように警告された。

  6  そこでわたしニーファイは、自分の家族と、ゾーラムとその家族、兄サムとその家族、弟のヤコブとヨセフ、わたしの姉妹たち、そのほかわたしとともに行きたい者たち全員を連れて出た。わたしとともに行くことを望んだ者たちは皆、神の警告と啓示を信じる者たちであったので、わたしの言葉に聞き従った。

  7  わたしたちは天幕と持てるものをすべて携えて、幾日も荒れ野を旅した。そして、幾日も荒れ野を旅した後、わたしたちは天幕を張った。

  8  そして、わたしの民がその地をニーファイと呼ぶことを望んだので、わたしたちはその地をニーファイと名付けた。

  9  また、わたしとともにいた者たちは皆、自分たちをニーファイの民と呼ぶことにした。

ニーファイ第二書5:5−9

紀元前約五百八十八年から五百五十九年に至る



27  ところでわたしは、ニーファイの地へ帰ろうとして荒れ野へ行ったある人々のことについて、少々述べたい。自分たちのかつての受け継ぎの地を手に入れたいと思った者たちが、大勢いたのである。

オムナイ書の27節

紀元前約百三十年



 次にのちの九州である筑紫(つくし)の島を生んだ。この島も身体が一つなのに顔が四つあって、顔を一つ一つに名前がついている。すなわちのちの筑前筑後(ちくぜんちくご)である筑紫(つくし)の国(今の福岡県)を、白日別(シラビワケ)と言い、のち豊前豊後(ぶぜんぶんご)である豊国(とよくに)(今の大分県と福岡県の一部)を、豊日別(トヨビワケ)と言い、のちの肥前肥後(ひぜんひご)である肥(ひ)の国(今の佐賀、長崎、熊本の名県)を、建日向日豊久土比混別(タケヒマカヒトヨクジヒネワケ)と言い、熊襲(くまそ)族の住んだ熊襲の国(今の熊本県南部と鹿児島県近辺)を、建日別(タケビワケ)と言う。

古事記

福永武彦(ふくながたけひこ)(訳)P.33、34




説明

    ニーファイの地は、南九州の内陸部にあったに違いないです。モルモン書はニーファイの地が海のそばだったと言及していません。それはゼラヘムラの地(筑紫(つくし)の平野)の南にありました。(地理の証拠二十二. レーマン人の領土をみてください。)それは、リーハイの元住居から逃げた後、ニーファイと彼の追随者によって解決されました。(ニーファイ第ニ書5:5−9)その上、海岸から上方角に向かう必要がありました、その場所とは恐らく山間部にありました。(英語版のオムナイ書の27節によるとニーフィアの地はゼラヘムラの地の上でした。しかし、この日本語の翻訳には「上」という言葉がありません。)

 歴史の証拠五によると記紀(きき)に現れる熊襲(くまそ)は二つの族(熊の族と襲の族)でした。そして熊(くま)の族はニーファイの族と同じです。九州の熊襲(くまそ)の国は、古事記に書かれているように日本の起源の神話の歴史に現れています。(上記の古事記の参照P.33、34)その一つの部分は球磨郡(くまぐん)と呼ばれました。それは現在の熊本県の内陸部にあります。

    推理するとこれはモルモン書の古代のニーファイの地です。この説明は球磨郡(くまぐん)の国の球磨(くま)という名前のためです。ここにニーファイ人の部族の古代の日本の名前が残っていると思われます。この地には、ニーファイ人が海のそばに住むレーマン人から離れて、内陸部の谷に逃げました。(南九州の内陸部に住む場所は山の谷だけです。)彼らはここに紀元前役580年から紀元前役210年に至るまで住んでいました。その後彼らはもう一度逃げなければなりませんでした。今回それはゼラヘムラの地(筑紫部屋)への旅でした。上記の日付について歴史の証拠一の説明の5番目にこれらの情報があります。



結び

    ニーファイの地は熊本県(くまもとけん)の球磨郡(くまぐん)にありました。




図一.十一 かつてニーファイの地(球磨郡(くまぐん))