地理の証拠五

約束の地の戦略的に重要で狭い通路

 

参照

1.北方の地と南方の地の間の狭い通路

  34  さて、デソレションの地の境に達するまで、彼らはモリアントンの民の進路を断てなかった。それでも、海に近く北方の地に通じており、また西も東も海に近い「地峡」4 のそばで、彼らはモリアントンの民の進路を断つことができた。

アルマ書50:34

紀元前六十八年



  モロナイはまた、バウンティフルの地の防備を固めて北方の地に通じる「地峡」を守り、レーマン人がその地点に達して四方からニーファイ人を攻め悩ます力を持たないようにすることをテアンクムに命じた。

アルマ書52:9

紀元前六十六年



  29  レーマン人は北方の地を、南方の地に通じる「地峡」までわたしたちに譲り、わたしたちは南方の地をすべてレーマン人に譲った。

モルモン書2:29

紀元約三百五十年



  そこでわたしは、自分の民をデソレションの地に、すなわち南方の地に通じる「地峡」のそばの境の地にある町に集めた。

モルモン書3:5

紀元三百六十年



2. ヤレドという民の王国は狭い通路の中で四回に渡って分割されました

  20  しかし、国は分割され、二つの王国、すなわち、シュールの王国と、ノアの息子コーホルの王国があった。

エテル書7:20



  そして、ヤレドは父に背き、ヘテの地に行って住んだ。彼は巧みな言葉で多くの人にへつらい、とうとう王国の半分を得るに至った。

エテル書8:2



  32  さて、コムは王国の半分を引き寄せ、四十二年間王国の半分を統治した。それから彼はアムギド王と戦うために出て行き、両者は長年の間戦った。その間にコムはアムギドに対する支配権を得て、王国の残りも治める権力を手に入れた。

エテル書10:32



  15  さて、民の中に謀反が起こった。それは権力と利益を得るために築かれたあの秘密結社のために生じたものである。また民の中に、罪悪に勢いのある一人の男が現れ、モロンと戦って、その戦いで王国の半分を打ち破った。そして、彼は長年の間その王国の半分を治めた。

エテル書11:15



  20  また、彼らは地峡のそばに、すなわち海によって陸が分けられている場所の近くに一つの大きな町を築いた。

エテル書10:20


3.ニーファイ人は南方の地にある小さい地峡の

近くから北方の地ヘ船を送りました

5 さて、ハゴスという人がおり、彼は非常に技量の優れた人であったので、出かけて行って、デソレションの地に近いバウンティフルの地の境で一隻の非常に大きな船を建造し、それを西の海に進水させた。そこは北方の地へ通じている地峡の近くであった。 

第三十八年に、この人はほかにも何隻か船を建造した。最初の船が戻って来ると、また多くの人がそれに乗り込み、彼らもたくさんの食糧を持って再び北方の地へ出発した。

8そして、彼らの消息は絶えてしまった。思うに、彼らは海の深みに沈んでおぼれてしまったのであろう。また、ほかにも一隻が船出したが、それもどこへ行ったかわたしたちには分からない。

10 さて、さばきつかさの統治第三十九年に、シブロンも死んだ。コリアントンは、北方の地へ行った人々に食糧を届けるために船でその地へ出かけて行った。

アルマ書63:5、7、8、10

紀元前約五十五年から五十三年に至る


10 そして、北方の地には材木が非常に乏しかったので、南方の地の人々は船で多くの材木を送った。

ヒラマン書3:10

紀元前約四十九年から三十九年に至る



説明

1.北方の地と南方の地の間の狭い通路

南方の地と、北方の地の間の小さい地峡の中には、特別な地形がありました。 (参照:アルマ書50:35、52:9、モルモン書2:29、3:5)それは狭い通路でした。(脚注3を見てください。)その通路は、南方の地から北方の地への細道でした。ジョン・L・ソレンソンは、ユタ州にあるブリガム・ヤング大学の人類学の前の教授で、モルモン書の専門家でした。彼はその書の中で、地形についてこう書いています。「この地峡の中には特別の「狭い通路」という地質学上の構造があります。」「Within the neck(地峡)was what can only have been a specific geological structure called the “narrow pass” or “narrow passage”」。 (参照:Mormon’s Map (モルモンの地図), c. 2000, John L. Sorenson, The Foundation for Ancient Research and Mormon Studies at Brigham Young University、p. 21)この狭い通路はニーファイ人にとって明らかに戦略的な地形でした。それは南方の地から北方の地へ繋がる唯一の地上の道でした。ニーファイ人とレーマン人はその場所で多くの戦闘を繰り広げました。



2. ヤレド人という民の王国は狭い通路のために四回分割されました

モルモン書の中のヤレド人という民は約束の地の小さい地峡のそばに住んでいました。(参照:エテル書10:20) そして彼らはその狭い通路の両側に住んでいたと考えられます。 彼らの王国は少なくとも四回分割されました。参照:エテル書7:20、8:2、10:32、11:15)ソレンソン教授によるとその分割の理由は地理にある特徴がその人々の王国を分けたと述べています。(参照:「Mormon’s Map」p.46−47)しかしながら彼はその地理の特徴の形態を確認していませんでした。その地峡の中にあった狭い通路がその特徴であったということを今私達は結論することができます。



3.ニーファイ人は南方の地にある小さい地峡の近くから北方の地ヘ船を送りました

この狭い通路はおそらく大量の商品を運ぶためには難しく狭過ぎました。ですから紀元前の一世紀にニーファイ人が南方の地から北方の地に移住し植民し始めた時から彼らたちは船を建造して北方の地に商品を運びました。(参照:アルマ書63:5、7、8、10、 ヒラマン書3:10)


   

結び

約束の地の南方の地は北方の地から狭い通路によって結合されていました。 それはニーファイ人にとって重要な戦略の場所でした。地理の証拠二十四はその狭い通路を囲んだデソレションの地という地方についての情報があります。

4 アルマ書50:34, アルマ書52:9, モルモン書2:29、そしてモルモン書3:5の公式な英語から日本語への訳文には誤りが生じています。で囲んである言葉「」の正しい翻訳は「狭い」です。モルモン書2:29でしている英語の言葉は「 narrow passage」です。モルモン書3:5、アルマ書50:34、そしてアルマ書52:9の対応する英語の言葉は「narrow pass」です。二つの異なったの地理の解釈にたいしてそれらが地のであったのか、海のであったのかを証明するには文脈から推測しなければなりませんので少々を要します。