地理の証拠三十四

預言者リーハイが最初に上陸した地と囎唹郡

 

参照

  13  そしてまた、海を渡った後も、彼らは最初の受け継ぎの地で不当な扱いを受けたというのであった。しかし、これはすべて、ニーファイが兄たちよりも忠実に主の戒めを守ったためである。そのためニーファイは主の恵みを受けた。主はニーファイの祈りを聞いて、祈りにこたえられた。そしてニーファイは、荒れ野で彼らの旅を導いたのである。

モサヤー書10:13

紀元前約百八十七年から百六十年に至る



  28  さて、レーマン人の中でさらに怠惰な者たちは荒れ野にいて、天幕に住んでいた。彼らはニーファイの地に含まれる西方の荒れ野全体に広く住んでおり、また、ゼラヘムラの地の西方の海岸に近い境の地付近にも、さらには、ニーファイの地の西方の、彼らの先祖が最初受け継ぎの地とした所にも住んでいた。このように、彼らは海沿いの境の地に住んでいた。

アルマ書22:28

紀元前約九十年から七十七年に至る



次にのちの九州である筑紫(つくし)の島を生んだ。この島も身体が一つなのに顔が四つあって、顔を一つ一つに名前がついている。すなわちのちの筑前筑後(ちくぜんちくご)である筑紫(つくし)の国(今の福岡県)を、白日別(シラビワケ)と言い、のち豊前豊後(ぶぜんぶんご)である豊国(とよくに)(今の大分県と福岡県の一部)を、豊日別(トヨビワケ)と言い、のちの肥前肥後(ひぜんひご)である肥(ひ)の国(今の佐賀、長崎、熊本の名県)を、建日向日豊久土比混別(タケヒマカヒトヨクジヒネワケ)と言い、熊襲(くまそ)族の住んだ熊襲の国(今の熊本県南部と鹿児島県近辺)を、建日別(タケビワケ)と言う。

古事記

福永武彦(ふくながたけひこ)(訳)P.33、34




説明

    モルモン書には預言者リーハイが最初に上陸地を言及しませんでしたが、レーマン人の先祖は最初の受け継ぎの地を言及しました。(アルマ書22:28)おそらくそれらは同じ地にあると思われます。この参照によると最初の受け継ぎの地はニーファイの地の西海岸にあったことを示しています。それもまたゼラヘムラの地(筑紫(つくし)の平野)の南にありました。(地理の証拠二十二. レーマン人の領土をみてください。)

 歴史の証拠五によると熊襲(くまそ)の襲(そ)の族はレーマン人の族でした。九州の熊襲(くまそ)の国は、古事記に書かれているように日本の起源の神話の歴史に現れています。(上記の古事記の参照P.33、34)その一つの部分は囎唹郡(そおぐん) と呼ばれました。推理するとこれはレーマン人の先祖が最初に受け継いだ地でした。そして預言者リーハイが最初に上陸した地は囎唹郡(そおぐん)にありました。具体的には西囎唹郡(そおぐん)の海岸です。この説明は囎唹郡(そおぐん)の地の囎唹(そお)という名前のためです。ここにレーマン人の部族の古代の日本の名前が残っていることを考えると、これは信憑性が高い場所と考えられます。この地では、レーマン人居住していたので、ニーファイ人が彼らから離れて、内陸部の場所に逃げました。ここからレーマン人が西と東海岸沿いに領土を拡張しました。モルモン書には、レーマン人とニーファイ人は最初の受け継ぎの地の南方へ拡大したことについての言及がありません。 この土地は鹿児島(かごしま)の南端にあったので、それは明らかだと考えられます。

    注目:ニーファイ人も短い間囎唹郡(そおぐん)に住んでいました。しかし彼らは紀元前約580年に内陸に逃げました。



説明

 預言者リーハイが最初に上陸した地は九州の南端にありました。リーハイの子孫の最初の受け継ぎの地は囎唹郡の地方にありました。次の図をみてください。




      図一.九 預言者リーハイの最初に上陸した地(西囎唹郡)




図一. かつて西(桜色)、東(黄)、そして現在(緑)の囎唹郡


ウィキペディアによると県のは「713年の当初から存在した4郡のひとつである。元々はと表記した。」(https://ja.wikipedia.org/wiki/曽於郡)現在のもっとも小さいはかつてのからの存続です。