地理の証拠三十二

国の中央部

 

参照

  27  しかし見よ、レーマン人は彼の願ったようには恐れず、国の中央部に入って来て首府であるゼラヘムラの町を奪い、国の最も重要な地方を経由して進みながら、男、女、子供の区別なく民を大勢殺し、多くの町と多くのとりでを占領した。

  28  モロナイハはこれを知ると、彼らがバウンティフルの地へ達する前に遠回りして彼らの進路を断つため、すぐにリーハイを軍隊とともに派遣した。

  29  そして、リーハイはそのように行った。彼はレーマン人がバウンティフルの地に達する前に、彼らの進路を断って攻撃したので、彼らはゼラヘムラの地へ向かって退却し始めた。

ヒラマン書1:27−29

紀元前約五十一年



  21  しかし、ギドギドーナイは彼らに言った。「主は許されない。もしわたしたちが彼らに向かって上って行けば、主はわたしたちを彼らの手に渡されるであろう。だからわたしたちは、自分たちの土地の中央で準備し、わたしたちの全軍を集めよう。彼らに向かって出て行かないで、彼らが向かって来るまで待とう。主が生きておられるように確かに、わたしたちがこのようにすれば、主は彼らをわたしたちの手に渡してくださる。」


  23  指定された地は、ゼラヘムラの地と、ゼラヘムラの地とバウンティフルの地の間の地であり、バウンティフルの地とデソレションの地の間の境界にまで達していた。

第三ニーファイ ニーファイの書3:21、23

紀元約十六年から十八年に至る


説明

    地理の証拠二十七によるとゼラヘムラの地は筑紫平野にありました、そして山岳荒野に囲まれていたことを思い出してください。人々は北にあるデソレションの地へ向かうために、バウンティフルの地を通り抜けて、荒野を分割する道路をも駆使してデソレションの地へ向かわなければなりませんでした。どうやらゼラヘムラとこの通路は少なくとも紀元前51年から紀元18年まではニーファイ人の文明の中心地でした。ニーファイ人はその地の重要な中央部でかれらの敵から攻撃されました。(ヒラマン1:27-29)また、後でこの同じ領域へニーファイ人の後退することが記載されていました。 (3ニーファイ3:21-23)私は、添付の地図に描かれた線でこの通路を示しました。基本的に、この通路は現在の久留米市から福岡市の間にあります。




結び

    ニーファイ人の地の紀元前51年から紀元前18年までの中央部は上記の地図に示しました。


図一.八 ニーファイ人の「国の中央部」