地理の証拠二十五

バウンティフルの(豊かな)地

 

参照

  29  また、東方の海岸近くにも多くのレーマン人がいた。彼らはニーファイ人によってそこに追い込まれたのである。このように、ニーファイ人はほとんどレーマン人に囲まれていた。それでも、ニーファイ人はシドン川の源で荒れ野に接する地の北部全体を所有してきた。その地は東から西まで荒れ野に沿っており、北方は彼らがバウンティフル17と名付けた地まで達していた。

  30  バウンティフルの地は、ニーファイ人がデソレションと名付けた地に接していた。そのデソレションの地ははるか北方にあって、かつて人々が住んでいたが今はもう滅びてしまい、前に述べたようにゼラヘムラの民18がその人々の骨を発見した地である。またそこは、ゼラヘムラの民が最初に上陸した所でもある。

  31  彼らはそこから南の荒れ野へ上って来た。このようにして、北方の地はデソレションと呼ばれ、南方の地は、あらゆる野生動物で満ちている荒れ野があったので、バウンティフルと呼ばれた。その野生動物の一部は、食べ物を求めて北方の地から来たものであった。

  32  さて、東の海から西の海までは、バウンティフルとデソレションの地の境界線上をニーファイ人が一日半旅をすれば行けるわずかな距離であった。このように、ニーファイの地とゼラヘムラの地はほとんど海に囲まれており、北方の地と南方の地の間には小さい地峡があった。

  33  そしてニーファイ人は、東の海から西の海に至るまでバウンティフルの地に住んでいた。このように、ニーファイ人は賢明に彼らの見張りの兵と軍隊をもってレーマン人を南方に閉ざし、レーマン人が北方に領土を持って北方の地で増え広がることのないようにした。

アルマ書22:29−33

紀元前約九十年から七十七年に至る



説明

この節の主要点

(1)バウンティフルの地はデソレションの地とゼラヘムラの地の間にありました。(参照:アルマ書22:29−33) そのバウンティフルの地は北九州にありました。

(2) バウンティフルの地は東の海から西の海まで広域に渡っていました。(参照:アルマ書22:33)

(3)バウンティフルの地は以前は荒れ野でした。そしてその地の標高はデソレションの地より高所にありました。上記の節アルマ書22:31−32の参照にあるようにゼラヘムラの民はデソレションの地からバウンティフルの地へ上って行きました。「上って行った」とはさらに高所へ行ったこという意味に繋がります。モルモン書では描写している「上」と「下」は人々が山地を旅する時の標高差を表現していると思われます。19

(4)ゼラヘムラの民という人々は水平線にある関門海峡の地方から南のバウンティフルという荒れ野へ上って来て、それから筑紫平野に下りました。(アルマ書22:30−31、 地理の証拠二十四の主要点5、そして地理の証拠三十二も参照してください。)

(5)日本の昔の豊国とバウンティフルの(豊かな)地はほぼ同じ位置にありました。ウィキペディアによると豊国は「地理的には、九州の北東部に位置し、現在の福岡県東部および大分県全域に相当する。」とあります。古事記に於ける豊国の参照が下記にあります。20 その地名はニーファイ人の古代の歴史の時期から日本の歴史の時期まで続きました。21



結び

バウンティフルの地は北九州にありました。付属の「地図三.モルモン書の地」と下記の地図を比較してください。

17 「バウンティフル」は英語から日本語への音訳です。その意味は「豊か」です。

18 「ザラヘムラの民」は紀元前の五百年代に日本に定住した人々でした。彼らはエルサレムから日本に上陸しました。モルモン書ではこの民について残念ながら詳細な記述をしていません。しかしながらモルモン書の中のオムナイ書一章にはこの民について少なからず述べられています。

19 Mormon’s Map, p. 33, John L. Sorenson, The Foundation for Ancient Research and Mormon Studies, copyright 2000 (ISBN 0-934893-48-9)

20 古事記 福永武彦(訳)P.33\34

21 私がバウンティフルの地の位置を発見した時は、豊国の位置を発見した時より数年前でした。上記の(14)の箇条はバウンティフルの地を位置するための情報が十分に記載されていますが、さらに箇条(5)では衝撃的な証拠が記載されています。