地理の証拠二十四

デソレション(不毛)の地

 

参照

ヤレド人という人々の小さい地峡にある古代文明

  20  また、彼らは地峡のそばに、すなわち海によって陸が分けられている場所の近くに一つの大きな町を築いた。

エテル書10:20



  29  また、東方の海岸近くにも多くのレーマン人がいた。彼らはニーファイ人によってそこに追い込まれたのである。このように、ニーファイ人はほとんどレーマン人に囲まれていた。それでも、ニーファイ人はシドン川の源で荒れ野に接する地の北部全体を所有してきた。その地は東から西まで荒れ野に沿っており、北方は彼らがバウンティフルと名付けた地まで達していた。

  30  バウンティフルの地は、ニーファイ人がデソレション13 と名付けた地に接していた。そのデソレションの地ははるか北方にあって、かつて人々が住んでいたが今はもう滅びてしまい、前に述べたようにゼラヘムラの民14 がその人々の骨を発見した地である。またそこは、ゼラヘムラの民が最初に上陸した所でもある。

  31  彼らはそこから南の荒れ野へ上って来た。このようにして、北方の地はデソレションと呼ばれ、南方の地は、あらゆる野生動物で満ちている荒れ野があったので、バウンティフルと呼ばれた。その野生動物の一部は、食べ物を求めて北方の地から来たものであった。

  32  さて、東の海から西の海までは、バウンティフルとデソレションの地の境界線上をニーファイ人が一日半旅をすれば行けるわずかな距離であった。このように、ニーファイの地とゼラヘムラの地はほとんど海に囲まれており、北方の地と南方の地の間には小さい地峡があった。

アルマ書22:29−32

紀元前約九十年から七十七年に至る



  30  さて、地にひどい飢饉が起こり、その飢饉のためにその地に住む者たちが次から次へと死んでいった。地の面に雨が少しも降らなかったからである。

  31  また、地の面に毒蛇も現れ、多くの人がその毒で死んだ。そして、彼らの家畜の群れは毒蛇に追われて、ニーファイ人がゼラヘムラと呼んだ南方の地へ向かって逃げ始めた。

  32  そして、途中でその多くが死んだ。それでも、ある群れは南方の地へ逃げ込んだ。

  33  そこで主は蛇にそれ以上家畜の群れを追うのをやめさせ、人々が通り抜けられないようにその道をふさがせて、通り抜けようとする者が毒蛇のために倒れるようにされた。

  34  そして、民は家畜の逃げた道をたどり、途中で倒れた家畜の死体をむさぼり食い、一つも残さずに食い尽くした。そして民は今や自分たちの滅びるのが避けられないことを知ると、罪悪を悔い改めて主に叫び求め始めた。

  35  そして、彼らが主の前に十分にへりくだったので、主は地の面に雨を降らせられた。そこで民は再び力を取り戻し、また北の地方と周りのあらゆる地方で、実がとれ始めた。このようにして、主は民を飢饉から守ることによって彼らに御自分の力を示された。

エテル書9:30−35



  6  王が住んでいたモロンの地は、ニーファイ人がデソレションと呼んでいる地に近かった。

エテル書7:6



  8  ところが彼らは、幾日もの間荒れ野の中で迷ってしまった。それでも彼らは熱心に探したので、ゼラヘムラの地は見つからなかったものの、またこの地に戻って来た。その間、彼らは多くの水のある地方を旅し、人間と獣の骨が辺り一帯に散乱しており、またあらゆる建物の廃虚が一面に散在している地を発見した。すなわち、イスラエルの大群ほどに数多くの人が住んでいた地を発見した。

モーサヤ書8:8




デソレションの地は狭い通路の南でした

  34  さて、デソレションの地の境に達するまで、彼らはモリアントンの民の進路を断てなかった。それでも、海に近く北方の地に通じており、また西も東も海に近い地峡15 のそばで、彼らはモリアントンの民の進路を断つことができた。

アルマ書50:34

紀元前六十八年


デソレションの地は狭い通路の北でした

  5  そこでわたしは、自分の民をデソレションの地に、すなわち南方の地に通じる地峡16 のそばの境の地にある町に集めた。

モルモン書3:5

紀元三百六十年



デソレションの地は小さい地峡の南でした

  5  さて、ハゴスという人がおり、彼は非常に技量の優れた人であったので、出かけて行って、デソレションの地に近いバウンティフルの地の境で一隻の非常に大きな船を建造し、それを西の海に進水させた。そこは北方の地へ通じている地峡の近くであった。

アルマ書63:5

紀元前約五十五年から五十三年に至る



南方と北方の地

  10  ところで、南の地はリーハイと呼ばれ、北の地はゼデキヤの息子にちなんでミュレクと呼ばれた。主がミュレクを北の地へ導き、リーハイを南の地へ導いてこられたからである。

ヒラマン書6:10

紀元前約二十九年


説明

この節の主要点

1。ヤレド人という人々は前述した小さい地峡に住んでいました。(上の節エテル10:20と地理の証拠四を参照してください。)  彼らの文明はニーファイ人の文明以前にありました。


2。ヤレド人の王国の中央は関門海峡にありました、そして彼らは関門海峡の両側で住んでいました。(参照:地理の証拠五の主要点2)


3。モルモン書によるとヤレド人は関門海峡の両側から南方と北方へ旅しました。たとえば彼等の南方の地(九州)の一番遠い旅はゼラヘムラの地でした。それは筑後川の筑紫平野でした。(参照:エテル書9:30−35)さらに北方の地(本州)の中の一番遠い旅はアブロムという場所でした。それは現在の名古屋地方です。(地理の証拠十五を参照してください。)


4。デソレションの地の名前の由来はニーファイ人が名付けたものです。古代のヤレド人の文明はニーファイ人が出現した後に滅びました。 デソレション の地にはヤレド人の文明の廃墟がありました。(参照:上の節アルマ書22:30−31、エテル書7:6、そしてモサイア書8:8)


5。 ニーファイ人はデソレションの地にヤレド人の跡を見つけました。その地は関門海峡の南側と北側の両方にありました。 上の節モサイア書8:8、アルマ書50:34、そして アルマ書63:5ではデソレションの地の南側と言及していますが、 モルモン書3:5ではその地の北側と言及しています。

    さらにアルマ書22:30−32では関門海峡の南側と北側の両側のデソレションの地に言及しています。アルマ書22:30の説明によるとデソレションの地はゼラヘムラの民が最初に上陸した所でした。そのゼラヘムラという民はミュレク人でした。(上記の脚注15を参照してください。)ヒラマン書6:10の説明によると、ミュレク人が最初に上陸した地は北方の地(本州)でした。その地がまさしくデソレションの地の北側だったと紹介しています。 アルマ書22:31の説明ではミュレク人(ゼラヘムラの民)はデソレションの地の北側からさらに南方に下り、関門海峡とデソレションの地の南側を通過し、その後バウンティフルの地の荒れ野を越えてゼラヘムラの地に到着したとしています。後者は現在の筑紫平野にありました。(地理の証拠二十六と三十二を参照してください。)


6。私たちはデソレションの地の南の境界線の位置をニーファイ人が定めたことを推理することができます。(しかしながら北の境界線については何らの情報も得られていません。) 付属の「地図三.モルモン書の地」という地図を見てください。

    上記の節アルマ書22:32ではデソレションの地(不毛の地)であった南の領土については東から西の海に沿ってあるバウンティフルとデソレションの地を辿って進むところに境界線を見いだすことができます。その境界線はニーファイ人が一日半旅をすれば行けるわずかな距離でした。(関門海峡の南側では東の海から西の海までの境界線を概算しました。 その線は先述の地図で紹介しています。グーグルの地図を参照しました。) 今、私達がその境界線を頼りに旅をすれば、もっと正確な距離を知り得ることでしょう。



結び

モルモン書で述べているデソレションの地名がどこであったかを探る糸口を発見することができました。そのデソレションの地は関門海峡に面した場所であったのです。この南の境界線についての詳細は付属の「地図三.モルモン書の地」にあります。


13 「デソレション」は英語から日本語への音訳です。その意味は「不毛」です。

14 「ザラヘムラの民」は紀元前約五百八十年代に日本に定住した人々でした。彼等の指導者はミュレクという男の人でした。彼らはエルサレムから日本まで来ました。上記の節アルマ書22:30によるとその人々はデソレションの地に「最初に上陸」しました。下記の節 ヒラマン書6:10 によるとその人々はその時に北方という地(現在の本州)に到着しました。もう少し正確に述べるならば、その北方の地とは現在の本州の下関市の近くにありました。推理すると彼等が上陸した最終地は九州でした。その後、彼らはさらにザラヘムラの地へと移動しました。 地理の証拠二十六に記載されているザラヘムラの地とは現在の九州にある筑紫平野でした。残念ながらモルモン書の中ではこのザラヘムラの民については多く述べられていません。 しかしながらモルモン書の中のオムナイ書では多少ながら彼等について述べられています。

15 モルモン書の英語の正式の訳書は「narrow passage」です。日本語に訳すと「狭い通路」となります。日本語のモルモン書では「地峡」と誤訳されています。

16 上記の補注16を参照してください。