地理の証拠二十三

レーマン人のとニーファイ人のを分けていた境界線

 

参照

13  そしてニーファイ人は、一つの町の建設を始め、その町の名をモロナイと呼んだ。それは東の海の近くで、レーマン人の領土の境界線に近い南の方にあった。

アルマ書50:13

紀元前約七十二年



7  そしてモロナイは、軍隊を東の荒れ野に行かせた。そこで、彼らは出て行って、東の荒れ野にいたすべてのレーマン人を、ゼラヘムラの地の南にある彼らの土地へ追い払った。

8  ニーファイの地は、東の海からまっすぐ西の海に及んでいた。

9  さて、モロナイは、彼らの所有地の北方にある東の荒れ野からすべてのレーマン人を追い払うと、ゼラヘムラの地とその周辺の地に住む者たちを東の荒れ野に行かせ、海岸に近い地方までやって、その地に住まわせた。

10  彼はまた、南方の彼らの領土の境に軍隊を配置して、軍隊と民が敵の手から守られるように幾つものとりでを築かせた。

11  このようにして、彼は東の荒れ野のレーマン人のとりでをすべて断ち切り、また西の方でも同様にして、ニーファイ人とレーマン人の間の境界線上をとりでで固めた。この境界線はゼラヘムラの地とニーファイの地の間にあり、西の海からシドン川の源の付近を走っていた。ニーファイ人はその北方の全地を、すなわち、バウンティフルの地の北方にある全地を自分たちの好むままに所有した。

アルマ書50:7−11

紀元前七十二年




説明

    アルマ書50:13によると紀元前七十二年にニーファイン人の領土とレーマン人の領土は、ある境界線で分けられました。アルマ書50:8によるとその境界線は直線でした。この線は筑後川の筑紫平野の真っすぐ南にありました。 (地理の証拠二十一と二十二を見てください。)この線が大筋において正確性があると確信できます。上記の節11によるとこの線はシドン川の源を渡りました。ですからシドン川の源はこの線上にある一つの点です。 地理の証拠二十によるとシドン川(筑後川)の源は九州にある日田市の南と東にありました。

    紀元前約七十二年の太古の時代の人々の知恵は、照準線だけを頼りに長い直線を描くことでした。山間部の多い九州地方で測量の照準を定めるためには高度の稜線を探し当て、測量するという困難がありましたが、その測量に相応しい山が九州の国東半島にある再子山でした。彼等はこの再子山の頂上と日田市の少し南方にある地方の稜線を使って測量に役立てました。予想した通り、この境界線はゼラヘムラの地の少し南にありました。それはニーファイ人が住む南の境界線でした。




結び

    その境界線は付属の「地図三.モルモン書の地」の中に描写しました。