地理の証拠二十

マンタイの地とシドン川の源

 

参照

  27  そして王は全地に、すなわち自分の国内にいるすべての民と、その周辺の全地方にいるすべての民に布告を出した。この国は東と西で海に接しており、またゼラヘムラの地とは、東の海から西の海まで続いている細長い荒れ野で隔てられていた。また、この荒れ野は海岸線で湾曲しており、その北方の境はゼラヘムラの地からマンタイの境を通り、また東から西に流れるシドン川の源まで達していた。レーマン人とニーファイ人はこのようにして分かれていた。

アルマ書22:27

紀元前約九十年から七十年に至る



  22  見よ、そこで彼らは、ジェルションの地の境であえてニーファイ人を攻めようとせず、アンテオヌムを去って荒れ野へ向かった。そして、はるかシドン川の源の近くを、荒れ野の中を遠回りして進み、マンタイの地に入ってその地を占領しようとした。彼らは自分たちがどこへ行ったかモロナイの軍隊には分からないであろうと思ったからである。11

アルマ書43:22

紀元前七十三年


22  そこで彼らは死体をシドンの水に投げ込み、死体は流れて行って海の深みに葬られた。

アルマ書44:22

紀元前七十三年


説明

マンタイの地はニーファイ人にとって戦略上の位置を占拠した場所でした。それは彼らのゼラヘムラの首都と東海岸の村落の間にありました。 アルマ書22:27によるとマンタイの地はシドン川の源の近くにありました。シドン川は現在の筑後川でした。そして筑後川の源はほぼ九州の阿蘇山の北方の地方から大分県の日田市まで広がっています。日田市の近くで筑後川は四支流に別れています。それらは花月川、大山川、玖珠川、そして三隈川です。マンタイの地は日田市の盆地に位置していたと思われます。

マンタイの地の付近に流れていたシドン川は広大な面積をなし、ニーファイ人の手によって殺されたレーマン人の死体を投げ込むのに十分な広さがあり、それらの死体は海に流れて行く事が十分可能でした。まことに上の節、アルマ書44:22の事件はマンタイという町の近くの出来事でした。

さらに上の節アルマ書43:22はこの位置を確認しています。アンテオヌムという地はニーファイ人の領土の南に、または東海岸にありました。そこは現在の九州の東海岸にある大分市の近くにありました。(参照:地理の証拠三十)この例を考えるとレーマン人はアンテオヌムからマンタイまで行ってシドン川の源を渡りました。現在の九州の東海岸にある大分市から日田市まで行くには同じように筑後川の川上を渡って行かなければなりません。



結び

モルモン書のマンタイの地は九州の大分県の日田盆地にありました。シドン川の源は現在の筑後川の源と考えられます。そしてそこは日田市の付近にあり、日田盆地の南と東に渡っています。付属の「地図三.モルモン書の地」を見てください。

11 シドン川の源についてはモルモン書の中ですでに数回に渡り言われています。 アルマ書22:29、  アルマ書50:11、 そしてアルマ書56:25を見てください。