地理の証拠十八

クモラの地とクモラの丘

 

参照

  3  さて、第四十六年には、ひどい争いと多くの離反があった。そのために、ゼラヘムラの地を去り、北方の地へ行ってそこに住もうとした者が非常に大勢いた。

  4  彼らは非常に遠くまで旅をし、幾つもの大きな湖沼と多くの川のある所に着いた。

  5  そして、彼らはその地の全域に広がった。以前にその地に住んでいた多くの者のために荒らされておらず、樹木もなくなっていない方々の地方に広がった。

ヒラマン書3:3−5

紀元前約四十六 年



  2  そして、わたしモルモンは、レーマン人の王に手紙を書いて、クモラと呼ばれる丘に近いクモラの地に民を集め、そこでレーマン人と戦えるようにするのを認めてほしいと頼んだ。

  3  そこで、レーマン人の王はわたしが求めたことを認めてくれた。

  4  そこで、わたしたちはクモラの地に進軍し、クモラの丘の周りに天幕を張った。その丘は多くの水と川、泉のある地にあった。わたしたちはここで、レーマン人に対して優位に立てることを期待した。

モルモン書6:2−4

紀元三百八十五年



  6  そして、わたしたちが民を全員一団としてクモラの地に集め終えたとき、見よ、わたしモルモンは老いが進んでいた。わたしは、これが自分の民の最後の戦闘であることを知っており、また、先祖から伝えられてきた神聖な記録をレーマン人の手に渡してはならないと主から命じられていたので(レーマン人はそれらの記録を損なうからである)、わたしはニーファイの版からこの記録を作り、主の手によってわたしに託されたすべての記録をクモラの丘に隠した。そして、このわずかな版だけを息子モロナイに渡す。

モルモン書6:6

紀元三百八十五年



11  彼らは通り過ぎて、わたしたちの中の二十四人(この中にはわたしの息子モロナイもいた)を除くわたしの民をことごとく切り倒した。そこで、レーマン人が彼らの宿営に引き揚げた翌日、生き延びたわたしたちがクモラの丘の頂上から、わたしの民の死んだ者たちを見たところ、わたしが率いて指揮を執っていた一万人が切り倒されているのが見えた。

モルモン書6:11

紀元三百八十五年

説明

クモラの地

    地理の証拠八と地理の証拠十四の一致点八によるとこの上記の二つの最初の節は琵琶湖盆地(近江盆地)を表現しています。そこは現在の滋賀県の近くにあります。クモラの地は「大きな湖沼と多くの川のある所」と「多くの水と川、泉のある地」でした。(参照:ヒラマン書3:4 、モルモン書6:4) そこには確かに多くの水と川があります。(英語の)ウィキペディアによるとそこには400以上の小さな河川が流入する場所があります。そして瀬田という流れ出る川があります。

    筑紫平野(ゼラヘムラの地)は琵琶湖より遠隔地にあります。(参照:ヒラマン書3:3−4)(ゼラヘムラの地の情報を習うために地理の証拠二十六を参照してください。)



クモラの丘

    ニーファイ人の最後の大きい戦闘が勃発する直前に預言者モルモンはニーファイ人の歴史と聖典をクモラの丘の中に埋めました。(参照:モルモン書6:6)そしてニーファイ人はこの丘の周りに天幕を張りました。(参照:モルモン書6:4) クモラの丘は孤立した丘でした。そしてその丘は見晴し台の機能を果たしました。(参照:モルモン書6:11)

    琵琶湖盆地の滋賀県野洲市に、三上山(近江富士)があります。その標高は432mです。ウィキペディアによると、三上山は「平野部の残丘(浸食から取り残され、孤立した丘陵monadnockモナドノック。)」とありました。その山は準平原の平らな表面上に孤立しているので、その周辺では一番高い山を成しています。それは、ニーファイ人達の戦闘時に展望台として役立っていました。これらを検証すると、三上山はクモラの丘であったということが、私の研究から裏付けることができます。




結び

    モルモン書のクモラの地は琵琶湖盆地です。

    モルモン書のクモラの丘は三上山です。

    付属の「地図二.モルモン書の約束の地」を見てください。


クモラの丘(三上山)2008年





クモラの丘(三上山)、リプリアンクムの水(琵琶湖)

2013年1月1日