歴史の証拠十六

預言者リーハイの東方の旅路

 

歴史の証拠十六. 預言者リーハイの東方の旅路

時期:紀元前約600年から紀元前約588に至る




紹介

   リーハイの日本への旅について議論するために戻ってみましょう。リーハイと彼のグループはエルサレムを紀元前役600年に出発しました。モルモン書には言及されていませんが、日本書紀によれば、リーハイ(神武天皇)は、「東の方に良い土地があり、青い山が取り巻いている。その中へ天の磐舟(いわぶね)に乗って、とび降ってきた者がある」という最終目的地の事前情報を持っていました。その地は東方にありました。上記の一節では「天の磐舟に乗って、とび降ってきた者」は神様の天使だと思います。




参照

さてまた塩土(しおつつ)の翁(おじ)に聞くと「東の方に良い土地があり、青い山が取り巻いている。その中へ天の磐舟(いわぶね)に乗って、とび降ってきた者がある」と。思うにその土地は、大業をひろめ天下を治めるによいであろう。きっとこの国の中心地だろう。そのとび降ってきた者は、饒速日(にぎはやひ)というものであろう。そこにいって都をつくるにかぎる」と。諸皇子たちも「その通りです。私たちもそう思うところです。速かに実行しましょう」と申された。 この年は太歳(たいさい)の甲寅(きのえとら)である。

日本書紀(上)

宇治谷(うじたに) 孟(つとむ)(訳)P.91



7  さて、わたしニーファイは、イシマエルの娘の一人を妻にめとり、兄たちもまた、イシマエルの娘たちを妻にめとった。そしてゾーラムも、イシマエルの長女を妻にめとった。

ニーファイ第一書16:7

紀元前約六百年



1  さて、わたしたちはまた荒れ野の中を旅し、このときからはほぼ東の方へ進んで行った。わたしたちは旅をしながら、多くの苦難を乗り越えていった。そして妻たちは荒れ野の中で子供を産んだ。

ニーファイ第一書17:1

紀元前約五百九十九年


地理の証拠二の参照も見て下さい。



説明  
表一. リーハイの東方旅路の年表、赤は移動期間


図一. 古代中東の交易路


図二. 中東交易路、紀元前役1300年、赤い線が「王の道」


モルモン書の記録によれば、リーハイの一族は紅海に沿って南南東へ旅しました。その方向に沿った旅がどれだけの期間を費やしたかは分かりません。しかし、その旅は数ヶ月間を費やしたと考えられます。最後に彼らはネホムと呼ばれる場所で未知の時間を過ごしました。その後、彼らは東に向かって出発しました、そして八年間後に海に到着しました。

しかし、第1ニーファイ第2章の冒頭に重大な問題があること発見しました。それらを詳細に検討したいと思います。まず、旅の初めには物理的な不可能性を表す声明があります。このことに対して長年に渡りモルモン書の擁護者はそれを信じると同時に当惑もさせました。批判者に対しては弾薬を提供しました。


レーマンの川、レムエルの谷

紀元前約600年にリーハイがエルサレムから三日間旅して紅海まで到着した記録です。彼のキャラバンがこの距離(250キロほど、アカバ湾まで)を徒歩で移動するのは不可能でした。

さらに不可能と思われることは、彼が紅海に絶え間なく流れ込んできたレーマンという川のそばにキャンプしたことです。しかしながらこの川はアカバ湾まで続く大きな川でした。それは小さな流れや泉ではありませんでした。また、リーハイがレムエルと呼ぶ谷には、二十人以上の人々が長い間そこでキャンプしました。そこは洪水の影響を受けるような狭い峡谷ではありませんでした。そして、紅海に絶え間なく流れ込む川はありません。そこには非常に乾燥した土地があります。まれな降雨の間だけ河床は水で流れます。しかし、リーハイはこの川のそばで何日もキャンプしていました。彼の息子たちはエルサレムとレムエルの谷を二度ほど往復しました、そして彼らはその間にイシマエルの娘たちと結婚しました。

これらの問題を訂正するためには、私たちが地理の記録を保持することにあります。しかし、紅海という名前を死海に変えるすることが出来たら、これらの記述と完全に一致する場所があることが判明できます。その場所は、ヨルダン川が死海の北端に通じる谷に降りる場所です。

これは説明に合った唯一の場所で、そしてエルサレムから約50、60キロに及んでいます。 そこには三日で簡単に行くことができますした。(考えるに、リーハイはおそらく都市部には住んではいなかったと思われます。)

このような経緯から私はモルモン書の本文を訂正しました。死海の名前が間違って書かれたのか、または間違って翻訳されたのかはわかりません。しかし、私はこの場所が正しいと確信しています。

この情報を使って、私たちはリーハイのアジアを渡る旅の大まかな地図を描くことができます。参考資料は表三.七を参照してください。リーハイはヨルダン川を渡って死海の東にある山々に行きました。そこでは野生のイノシシ、アイベックス、ガゼルなどの獲物がいました。リーハイは主に南南東の方向に旅しました。図三.六では、南南東方向を示している直線があります。


ネホム

ゆくゆくは彼らはネホムと呼ばれる場所に到着しました。旅行日数を考えれば、そこはおそらく死海の南東にあったはずです。私は彼らが旅したであろう最も遠い南方の地は、サウジアラビアの都市のタブークの近くにあったと信じています。そこは私が地図でナホムを位置した場所です(図三.六)。

ネホムを出発した後、彼らはほぼ東に向いました。彼らは雨の季節に旅行した可能性が高いと思います。彼らはバビロンの近くのシルクロードと合流するために北アラビア砂漠を渡らなければなりませんでした。 タブークからバビロンまでの線を描きました。それはタブークからバグダッドまでの現在の高速道路のルートを辿ります。比較のために、図三.四と図三.五は、死海からバビロンに渡った古代の貿易ルートを示しています。

彼らはバビロンから東方の太平洋に向かっていたと思われます。彼らは明らかに都市の外にとどまって、その地に住んでいました。彼らのグループは彼らがお金を持っていたことや物品を交換することには言及していません。

彼らがネホムを離れる前に過ごした時間の期間は、モルモン書から一つの声明によって決めることができます。(これはほかのモルモン書の学者にも言及されていました。)リーハイの息子たちの妻たちは、ネホムを離れた後子どもたちを出産しました。彼らはエルサレムを離れた直後に結婚しました。彼らがエルサレムを離れてから約一年後ネホムを離れたと仮定するのが理にかなっています。それで、この年表の目的のために、私はエルサレムからの出発の一年後にネホムからの出発年を設定しました。おそらくそれは紀元前約599年でした。その後彼らが偉大な海に到着するまで、彼らがその後八年間東に向かって旅行したと述べています。それはおよそ591年の紀元前になったと思われます。


海と豊かな土地

ニーファイは彼らが海に到着した時を特別に描写していました。彼らが八年間の旅の間に海を見ていなかったことは明らかです。図三.七には、リーハイが通過した可能性のあるルートを示す黒線が描かれています。それは、タクラマカン砂漠の北に分岐し、中国の西安に至るシルクロードの主要ルートと重なっています。 確かに当時はよく彼らが旅した元来のシルクロードのルートはなかったかもしれませんが、地理上では同だと思われます。そこから私は中国の都市の杭州に直接行く道を描きました。そこは上海からわずかに南にあります。そして、シルクロードの南東端である蘇州の近くです。彼の民と一緒にリハイは海岸でテントでキャンプをしました。

この場所は、果物や野生の蜂蜜で豊富な土地であるという記述を満たしていると言えるでしょう。(ニーファイ第一書17:5)

これがモルモン書の記録と最も合致する場所であったと思われる重要な理由がいくつかあります。まず、前のセクションで学んだように、アジアの海岸から航海した後、リーハイは九州の南端に上陸しました。(南方からやって来て、九州の南端は最初に見た土地でした。) 朝鮮半島から出航すれば北九州に上陸した可能性が高いです。第二に、韓国と上海の間の中国沿岸には、ほとんど山岳地帯がありません。山岳地帯は上海のすぐ南から始まります。そしてニーファイは蘇州の近くの山で必要な道具の材料を集めに訪れたと言いました。その目的は船を作って海を航海することでした。

それゆえに陸続きに南方に向かって旅行する必要はなくなりました。ニーファイはそのことについては触れてはいませんでした。彼らは船を完成するために十分なだけ長くそこに止まりました。私の見積もりでは、船を建造するために三年間ほど費やしたと考えます。彼らは紀元前588年頃に南九州に船で到着しました。歴史の証拠一の説明の点5を見て下さい。

その旅路にリーハイに同行するグループは、少なくとも以下の人々で構成されていました。

1)リーハイ、2)リーハイの妻、サライア。 3−8)彼らの六人の息子、レーマン、レムエル、サム、ニーファイ、ヤコブ、そして、ヨセフ。(ニーファイ第一書2:5)ヤコブとヨセフは荒れ野で生まれました。 (ニーファイ第一書18:7)9−10)名前が不明な少なかとも二人の娘。 (ニーファイ第二書5:6)

11)荒れ野で亡くなったイシマエル。12)イシマエルの妻、13−19)かれらの二人の息子と五人の娘、かれらの名前の記録はありません。 (ニーファイ第一書7:6)

20)ゾラム。(ニーファイ第一書4:35)

21—?)それら他にも不明の数の子供は荒れ野で生まれました。(ニーファイ第一書17:1)

彼らは全部で二十一人以上同行したと思われます。



図三. リーハイの旅の最初の部分の可能な経路





凡例

① エルサレムから出発(紀元前約600年)  

② ネホム(現在のマディーナの近く)から出発(紀元前約599年) 

③ 海に到着(杭州市の近く、紀元前約591年)、日本まで出発(紀元前約588年)

④ 約束の地(南九州)に到着(紀元前約588年)

図四. 日本までの預言者リーハイが通過した可能な経路



結び

    紀元前600年に、預言者リーハイと彼の氏族は、約束の地のためにエルサレムを離れました。 彼らは紀元前588年に九州の南端に到着しました。この旅路は上記の図三と図四に描写されました。